2023年3月26日日曜日

3月22日、西宮の廣田神社に行きました

 

阪急甲陽線の苦楽園口で下車、東に向かって歩き名次神社を過ぎるとニテコ池(越水浄水場)に着きます。ここで北を見ると甲山が正面になります。いかにも甘南備という姿をしています。
さらに東に行くと賽神社です。境内の説明を読むと、それまでは桜の木を神木にしてきたが明治期に祠を立てたようです。塞の神は本来は境の神でしょうから桜の木はふさわしいようです。
ここで北に向かって坂を下りると西宮震災記念碑公園があります。写真の右側の碑に阪神淡路大震災の際の犠牲者のお名前が刻まれています。中央の塔は戦没者慰霊塔、その手前には野坂昭如氏の火垂るの墓誕生の地の碑、写真の左端の先には西宮市立満池谷墓地があります。近寄って写真を撮るのは失礼な気がして、遠景です。

また賽神社に戻って北東方向に行くと、ようやく廣田神社境内です。見事なコバノミツバツツジは兵庫県指定天然記念物ということです。

神社は上品なたたずまいです。
廣田神社のホームページにさまざまな情報がありますのでそれらは省略します。

この地は神功皇后紀に以下のように出てきます。
「于時、皇后之船𢌞於海中、以不能進、更還務古水門而卜之、於是天照大神誨之曰『我之荒魂、不可近皇居。當居御心廣田國』卽以山背根子之女葉山媛、令祭」(神功皇后は筑紫から帰って難波に向かおうとしたが船が海を回って進めなくなり武庫の湊で占うと、天照大神の自分の荒魂を皇后の近くに置くのはいけない廣田の国におくのが良いとの託宣を得、葉山姫に祀らせた)
この前後にあるのは忍熊王と武内宿祢・武振熊との戦闘場面です。記紀のこのあたりはうたも多く歌われて地上の争いと神々の争いが交錯する演劇の雰囲気が濃厚です。そこにこの唐突な記事が出てきて戸惑いますが、記紀のこのあたりと「神武東征」の難波に向かうあたりはなにやら類似点を感じます。
はるか古代の海人諸集団のなかにそれら両方の祖型となるような戦闘の神語りでもあったのでしょうか?廣田の集団はその海人諸集団のなかで一定の地位を主張できる立場にあり、また国家もそれを認めたということなのでしょうか。
国史を書くには国の隅々まで諸集団の位置づけをはっきりさせる必要があるのでしょう。とくに書紀には全体に政治的な気遣いのかたまりのような印象があって、おおくの集団の立場をあるときは押さえつけ、ある時はなだめるような感じで複雑なパッチワークを作っているように見えます。多数派をつくって主導権を確立する(国史を作る)のは手に汗を握るスリリングな作業のようです。

参考:『国史大系 日本書紀前編』『日本書紀(上)講談社学術文庫』『新版古事記 角川文庫』





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