高井田横穴群はJR関西本線高井田駅のすぐ北側にあります。横穴は総数162基におよび6世紀中頃から7世紀前半にかけて造られたといいます。古墳時代後期です。
墳丘のない横穴墓は関西では少なく、この高井田横穴群や下に載せる安福寺横穴群が稀有の存在のようですが、関東では少なくありません。
埼玉の吉見百穴、茨城の十五郎穴横穴墓群、東京の等々力渓谷横穴群、神奈川の市ヶ尾横穴古墳群などに行ったことがあります。また十五郎穴横穴墓群に近い装飾古墳、虎塚古墳の鮮やかな壁画には驚いたものです。
関東の横穴墓を作った人々と高井田横穴群を作った人々はなにか関係があるのでしょうか?
『高井田横穴線刻壁画保存事業報告書Ⅱ―第 3支群 5号墳一』には以下のように書かれています。
「Ⅱ 横穴内の環境改善方法について① 扉の構造は、横穴入り日全面に光が入らないように工夫しながら、約30cmの隙間を空け通風が可能な扉とする」。この隙間から撮りました。
右側は横穴前の説明版の一部です。
これは巫の舞いでしょうか。広い袖に大きな力を感じます。
その右上には船に乗る人物が見えます。
この地図は参考に記載した『玉手山7号墳の発掘調査』から拝借しました。古墳は見事に並んでいます。
意外なようですが、河内には前期の古墳はあまりないようで、ここは珍しいようです。
同書には以下のように書かれています。
「玉手山古墳群は、奈良盆地東南部のオオヤマト古墳群に大王墓が築かれた時期に、王権とつよく結びつき繁栄し、前期末に奈良盆地北辺に佐紀古墳群が形成される頃には衰退が始まり、玉手山丘陵の西側に古市古墳群があらわれる中期には、断絶したと考えることができるかもしれません」
玉手山古墳群はいわゆる三輪王朝のころに築かれています。卑弥呼の時代の少し後でしょうか。
玉手山1号墳の後円部墳頂には大坂夏の陣の際に討ち死にした徳川方武将奥田忠次の墓碑があります。前期の古墳は低地ではなく丘や高地にあるものです。
それらは人々の生活圏を望んでいます。
参考:柏原市文化財課「玉手山古墳群」「高井田横穴群」「高井田山古墳」、柏原市教育委員会文化財概報『玉手山3号墳』『高井田山古墳』『高井田横穴線刻壁画保存事業報告書Ⅱ―第 3支群 5号墳一』、大阪市立大学日本史研究室・柏原市教育委員会(2003)『玉手山7号墳の発掘調査』


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