朝日遺跡に行くために、まず名鉄名古屋本線の新清洲駅で降りました。
静かな駅です。
清須市観光協会で作っている清須城周辺マップです。これがいちばんシンプルでわかりやすいと思いました。
左下端の新清洲駅から川沿い(五条川)に清洲城に寄って、そのあと右のあいち朝日遺跡ミュージアムに行き、帰りは左下の東海交通事業線尾張星の宮駅に出るコースを歩きました。
五条川沿いに清州城のほうに行きます。
清州城です。信長が生きていたころにこのような天守はなかったと思いますが、どのようなモデルによって作っているのかよくわかりません。
朝日遺跡全体の広さはたいへんなもので、80 万㎡を超えるだろうということです。
ミュージアムの展示によると、佐賀県の吉野ヶ里遺跡が100 万㎡、大阪府の池上曽根遺跡が60 万㎡、奈良県の唐古鍵遺跡が30 万㎡ですのでその広さがわかります。
この遺跡ミュージアムのある場所は広い朝日遺跡の南西端のあたりで、ここは弥生人が最初に定住したエリアのようです。
弥生中期の大きな集落跡はおもに地図の清州JCTのあたりになります。
ミュージアムの「変遷と年代」によると弥生時代にこの遺跡は以下のような経過をたどったとのことです。
弥生時代前期(紀元前6~前4 世紀)
南側に貝塚が点在。初期の集落は径150 メートルほどの環濠集落。西日本の遠賀川式土器を使用。谷の北側には環濠をもたず縄文時代の伝統を引き継ぐ条痕文系土器を使用する人々が居住。
弥生時代中期前葉~中葉(紀元前4~前2 世紀)
集落が大きく広がり、南居住域と北居住域、東墓域と西墓域など、配置が定まった。北居住域の南側には、環濠・逆茂木・乱杭等からなる強固な防御施設が築かれた。東墓域には大小の方形周溝墓がつくられ、なかには30 メートルをこえる全国最大規模の墳墓も。玉作り、土器、石器、木製品、骨角器など、ものづくりと交易の拠点的な集落として発展。
弥生時代中期後葉(紀元前2~前1 世紀)
瀬戸内地域や近畿地方の影響が強くみられ、集落の構造にも大きな変化。環濠が掘られなくなり、居住域の区画が不明瞭になる。墓域は小グループに分かれ、古い墓を壊して新しい墓がつくられることもあった。中央の谷には砂が厚く堆積した。この頃気候の変化により頻繁に洪水が起こった。
弥生時代後期~終末期(1~3 世紀)
北居住域と南居住域に再び環濠が掘られ、居住域を取り巻くように墓がつくらた。南居住域の環濠の外には、銅鐸が埋納された。また、北居住域の東側では、水路に設けられたヤナ状遺構がみつかった。弥生時代終末期には、環濠に大量の土器が捨てられ、集落は衰退していった。
ミュージアムの屋外にある弥生時代初期の環濠の復元です。
ミュージアム内の展示内容は、わかりやすく見ごたえのある展示でした。
博物館HPの「オンライン博物館」にそれらは掲載されています。
高速道路が見えます。弥生時代も戦国時代も今も流通のためにの重要な場所というべきなのかもしれません。
参考:財団法人愛知県教育サービスセンター 愛知県埋蔵文化財センター『愛知県埋蔵文化財センター調査報告書131:清洲城下町遺跡』 2005 、(公益)愛知県教育•スポーツ振興財団 愛知県埋蔵文化財センター「清洲城下町遺跡現地説明会資料」2011、『愛知県埋蔵文化財センター調査報告書30:朝日遺跡』 1991 、『愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第138集 朝日遺跡Ⅶ (第3分冊 総括)2007、あいち朝日遺跡ミュージアムHP


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