まず、おおさか東線新加美駅に行きます。
ダイナミックな駅です。
まず、訪問個所の地図を示します。これは、平野区で作っている「ひらのビギナーズマップ」の一部をお借りして、加美遺跡、久宝寺南遺跡、鞍作寺を追加したものです。下部の八尾市との境を流れているのは平野川です。
今回は新加美駅~加美遺跡(久宝寺南遺跡方面を眺める)~菅原神社~奥田邸~鞍作寺~平野川をめぐります。
新加美駅から東に向かいます。
加美遺跡
加美遺跡はいまは加美工場団地の下になっています。
加美遺跡案内の文字部分の拡大です。
(この図は福永伸哉さんの『大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係』という論文中から拝借しました)
加美遺跡の中では河内地域で最大の弥生時代中期後葉のY1号墳丘墓が有名です。Y1号墓は、墳丘裾部で南北26m、東西15m、高さ3mで、墳丘内から23基の埋葬が確認されました。近畿地方を代表する弥生時代中期の大型墳丘墓です。
この図の中央右にY1号墓があり、中央左に14号墓が見えます。またその左下に1号墓が見えます。
2015年の『加美遺跡発掘調査報告6』には以下のような記述がありました(一部)。
1号方形周溝墓の土器は庄内2~3期に属するものが築造時の葬送儀礼に伴うもので、14号前方後方型周溝墓の土器については河内型庄内式甕の最新形式と布留式土器の最古形式の土器が共伴する時期である庄内4期/布留1期に属する。1号方形周溝墓、14号前方後方型周溝墓ともに葬送儀礼の共飲共食儀礼の際に用いた炊飯用の甕が多く出土した。(以上報告6 p288)
ややこしいのですが、ここに出てくる1号方形周溝墓とはY1号墓ではなく上の図の14号墓の左下の1号墓のことです。共飲共食儀礼の様子が見えるとは珍しいことです。
なお、Y1号墳丘墓は弥生時代中期後葉(紀元前2世紀~前1世紀)であって、1号墳と4号墳の説明に出てくる布留式は紀元300年ごろから始まりますのでまったく時代が違います。
それから、2025年の『加美遺跡発掘調査報告9』には以下のような記述がありました(一部)。
第Ⅵ章 調査成果のまとめ
今回実施した加美遺跡の発掘調査では地層を大別16層に区分し、弥生時代後期前半までの遺構面を発掘調査の対象とした。以下に調査成果を列記する。
(1) 縄文時代中期中葉~後葉(約5300~5000年前/第16層)には干潟から干潟後背の湿地へ変化
(2) 弥生時代後期前半直前の第13層上面で陸化
(3) 弥生時代後期前半には再び地下水位が上昇したが、その後背湿地を利用し水田(第12c層)が開発された。しかし、さらに水位は上昇して後背沼沢地、後背湿地に変化し(第12b・a層)、水田を放棄することを余儀なくされた。その後も地下水位の上昇と相対的な低下によって後背沼沢地から後背湿地、高燥な後背低地に変化し(第11b・a層)、小規模な開析流路が形成されたものの(第11a層上面)、さらに後背沼沢地から後背湿地、高燥な後背低地へ変化した(第10b・a層)
(4) 同じ弥生時代後期前半に第10a層上面を洪水氾濫堆積層が覆う(第9層)。第9層上面では開析流路が形成され、土壙や溝が作られる
(5) ほどなくしてこれらの遺構は後背湿地の堆積層(第8層)によって埋まるが、すぐに洪水氾濫堆積層(第7層)に覆われる。さらにその上位の第6層上面では水田が造成される。西畦畔の盛土内からは弥生時代後期前半の土器が出土した
(6) 第12~6層で出土した土器は僅かで、弥生時代後期前半を中心とする短期間に限定される
(7) 第5~3層でも地下水位の上昇と相対的な低下によって後背沼沢地から後背湿地、後背低地への変化が繰り返されるが、第4・3層層界付近にはウシによる踏み込みが見られることから、第3層上面では水田が造成されていた可能性が高い。これが水田であるとすれば古墳時代後期~飛鳥時代にかけてのものである
(報告書9 p53)
要は、何度も何度も水位の上昇や洪水に見舞われているということです。長期間にわたる水田の維持はとてもコストがかかる困難なものだったのでしょう。
加美工場団地の一角です。遺跡の図を見ると14号墓はこのあたりのように思います。
久宝寺南遺跡
加美遺跡から東に行くと広い久宝寺緑地があってそのまた東に大阪環状線/近畿自動車道天理吹田線が南北に連なっています。
この写真は久宝寺緑地から久宝寺駅の方(つまり西から東)を見ていて、この道路の正面から右(南)あたりが久宝寺南遺跡です。この遺跡は道路の下にあります。
財団法人大阪文化財センター編 1987 『近畿自動車道天理〜吹田線建設に伴う埋蔵文化財発掘調査概要報告書:久宝寺南(その2)』p101には以下のような記述があります。
第1号墓は群中の南側に位置し、その北半分を検出した。墳形は非常に特徴的であり幅6.5m、長さ4.5mの方形の突出部を有するもので、その主丘は一辺12m以上の長方形状を呈すると考えられる。一見、前方後方形状をなす特異なものである。
なんだか、ここに前方後方墳のようなものがあっていいものかどうか迷っているようなおっかなびっくりのような記述です。
いくつかの前方後方墳
実は、ここまで加美遺跡14号墳と久宝寺南1号墳にこだわってきたのは、この両者がこのブログで訪問してきた前方後方墳の延長にあるからです。
植田文雄『前方後方墳の謎(学生社2007)』には末尾に前方後方墳の一覧表があります。左端の数字は植田氏の通し番号です。
その中からこのブログに登場の古墳は以下の通りです。
1期(紀元200~220年)
3 滋賀県能登川町神郷亀塚古墳
4 大阪府八尾市久宝寺遺跡南群1号墓
3期(250~270年)
22 城陽市 芝ヶ原古墳
4期(270~300年)
31 埼玉県上福岡市権現山2号墳
52 大阪市加美遺跡14号墓
53 兵庫県西求女塚古墳
5期(300~350年)
99 滋賀県大津市皇子山1号墳
101 京都府向日市元稲荷古墳
なかなかよく歩いたものです。
沼津市の高尾山古墳がないのはどうしてだろうと思いましたが、この古墳は本調査が2007年~2008年ですので著作の際に言及が間に合わなかったのでしょう。
遺跡を後にしてJR線の南に出て加美駅の方向に戻ります。
加美でも久宝寺でも東の方に生駒から二上山がよく見えるはずですが歩き回ってもほとんど山が見えません。工場やマンションが多いのです。
歩いている途中にスーパーがあって屋上に登れそうです。
ようやく少し生駒方面が見えました。

最上階にある喫茶店でひとやすみ。甘いものが欲しかった。
菅原神社。
神社奥にある「三鞍作用水樋門記念の碑」。裏面に説明があります。それによると、この樋門は江戸時代中期に設置され、大和川沿いの青地樋門から平野川に導いた用水をこの樋門で取り入れて鞍作、南鞍作、新家の三か村の田畑約120町歩を潤し、また治水の役目をはたして河内木綿の発展に大いに貢献したということです。
しかし、この樋門がどこにあるのかは書いてないのでわかりません。たぶん近くなのでしょう。
奥田邸です。むかしの大庄屋さんですね。
2004年に閉鎖された旧阪和貨物船がこの上を通っていました。廃線マニアの気持ちが少しわかります。
鞍作寺です。なかなかの面構えです。
鞍作寺前の案内表示です。鞍作氏がいたということです。
平野川です。今はすっかり管理されていますがむかしはたいへんな暴れ川だったのでしょう。
<参考>一般財団法人大阪市文化財協会『加美遺跡発掘調査報告9』2025、大阪市博物館協会大阪文化財研究所 『加美遺跡発掘調査報告8』2021、大阪市博物館協会大阪文化財研究所 『』加美遺跡発掘調査報告7』2016、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、大阪市博物館協会大阪文化財研究所『加美遺跡発掘調査報告5』 2015、大阪市博物館協会大阪文化財『加美遺跡発掘調査報告6』2015研究所 『加美遺跡発掘調査報告4』2014、大阪市博物館協会大阪文化財研究所 『加美遺跡発掘調査報告3』2011、大阪市博物館協会大阪文化財研究所『加美遺跡発掘調査報告2』 2003、大阪市博物館協会大阪文化財研究所『加美遺跡発掘調査報告1』 2003、大阪市指定文化財(平成17年度)加美遺跡Y-1号墓出土遺物 2024、大阪歴史博物館「古代の加美遺跡」2015、大阪歴史博物館「加美遺跡Y1号墳丘墓出土の土器(大阪市指定文化財)」2019、福永伸哉『大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係』待兼山論叢. 史学篇. 大阪大学2008、若林邦彦「弥生時代大規模集落の評価 大阪平野の弥生時代中期遺跡群を中心に]日本考古学/8 巻 (2001) 12 号、高野陽子「出現期前方後円墳をめぐる二、三の問題‐京都府黒田古墳の再評価‐」京都府埋蔵文化財論集 第5集、大阪府文化財センター 「久宝寺遺跡現地説明会資料」2002年、大阪市平野区役所 政策推進課政策推進グループ「平野区うぉ~くらり~ 加美コース(約7.6キロメートル)」、平野区役所政策推進課「ひらのくビギナーズマップ」、財団法人大阪文化財センター編 『久宝寺南(その2)近畿自動車道天理〜吹田線建設に伴う埋蔵文化財発掘調査概要報告書』1987 、大阪市東住吉区「065阪和貨物線と『おおさか東線』」
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