2024年4月3日水曜日

川崎市の後期弥生時代(3月10日長尾台遺跡・東高根遺跡、3月16日梶山遺跡・上台遺跡・上台北遺跡、3月19日矢上上ノ町遺跡(日吉公園)・矢上台遺跡(慶應義塾大学矢上キャンパス)

弥生時代の移住?

川崎市の弥生時代についてwebで読める資料を読んでいるときに、下のような記述に出会いました。(安藤広道「川崎・横浜市域の弥生時代後期の社会」)

中期における鶴見川・早渕川流域の大集落群は後期初頭に突如として廃絶されるが、その背景には多摩川・鶴見川下流域への集団全体の移動も想定可能である。その場合、移住集団の規模は、2,000人以上に達していたものと思われる。

意味は、同論文にある下の地図の左寄りから右寄りの段丘の方へと移住があった可能性があるということです。2000人もの人の移住とはただ事ではありません。いったい何があったのでしょうか?

そのころの社会組織、生業、交通、流通、祭事などは勉強不足でおよそクリアなイメージは湧かないのですが、せめて景観でも見ようと思って何か所か歩いてきました。

弥生遺跡は登戸付近から鶴見方面にかけて点々と段丘上にあります。



これは、国土地理院デジタル標高地形図 (川崎市【技術資料D1-No.895】)からの引用です。暴れ川であった古多摩川やいくつもの川が多摩丘陵と下末吉段丘を削っていった様子がうかがえます。上から右に流れている大きな川が多摩川で、その左下方向にあって大きく蛇行しながら海に向かっているのが鶴見川です。

3月10日、長尾台遺跡(ふじやま遺跡公園)から東高根遺跡へ


ここは、一番上の遺跡地図の範囲を超えた少し北で、最寄り駅はJR南武線の宿河原駅です。弥生時代後期の住居跡3軒が発掘されています(縄文住居もあったそうです)。東方向を見ているところで、中央高速の先に遠く武蔵小杉まで見えます。
これは近くにある五所塚です。古墳ではなく、中・近世の十三塚の一種です。ここから奥に見える長尾神社の森にかけて縄文遺跡が広がっています。



長尾台遺跡から住宅街を抜け南東方向に歩いて東名高速の高根橋を超えると、東高根森林公園に入り、その中に古代芝生広場があります。
台地部分の標高は約55メートルで、竪穴住居は台地全体に広がり総数は100~150軒を優に超えるそうです。住居跡の最盛期は弥生時代後期とされています。
台地から降りると谷戸があります。ここだけで人口を支えられたのでしょうか?

3月16日梶山遺跡・上台遺跡・上台北遺跡

この遺跡は一番上の遺跡地図では「7:江戸山・梶山遺跡群」周辺にあたります。有名な三ッ池公園の北側と東側になります。

梶山遺跡の場所はこの写真の近く、つまり兜塚古墳のある丘の周辺と思われますがはっきりわかりません。古い発掘調査報告書を見ると、縄文・弥生・古墳の3時代にまたがる遺跡で、台地上の平坦面では弥生時代後期および古墳時代前半期の遺物が多い、とあります。

兜塚古墳は直径30メートルの古墳時代後期の古墳です。この奥に丘が続いています。

すぐ近くを流れる鶴見川です。

キンクロハジロのいる三ッ池公園を抜けて上台遺跡に向かいます。

上台遺跡は横浜市立末吉中学校の中にあります。縄文時代中期と弥生時代後期の住居跡が発掘されました。

同じ上台遺跡という名前ですが、神奈川県立博物館の報告書に載っている場所はこのあたりで、小学校のすぐ近くですが違う場所です。弥生時代後期の住居跡が出てきました。いまはマンションが建っています。

このあたりの丘の上はすばらしく見晴らしの良いところです。南東方向を見ています。

上台遺跡から北に少し行くと上台北公園(右側)があって、この付近が上台北遺跡です。ここにも縄文時代中期と弥生時代後期の住居跡がありました。このあたり一帯に大きく住居跡が広がっていたようです。

上台北公園の裏から北東方向を見ています。遠くに武蔵小杉の高層マンション群が見えます。

3月19日、矢上上ノ町遺跡(日吉公園)・矢上台遺跡(慶應義塾大学矢上キャンパス)

まず、横浜市営地下鉄の日吉本町駅で降りて日吉公園に向かいます。
日吉公園の中です。ここには矢上上ノ台遺跡があって、弥生時代から古墳時代前期の竪穴住居跡6軒が重なり合って発見されたそうです。

公園からみると、やはり武蔵小杉がどこなのかよくわかります。

今度は矢上川に沿って下流に歩いて東急東横線を超えてさらに南に行くと慶應義塾大学矢上キャンパスや横浜市立矢上小学校のある崖の下に出ます。このパノラマ写真は、その崖を見上げています。
この上で行われた発掘調査で、慶応義塾矢上地区文化財調査室は「矢上キャンパスを中心に広がる矢上台遺跡(推定面積約9万平方メートル)全体では、1000軒をはるかに超える住居跡が存在していたと考えられる」「弥生時代後期・終末期には鶴見川流域一帯の中核となる集落群を形成していたのではないかと考えられる」と言っています。



参考:藤尾 慎一郎『弥生時代の歴史 (講談社現代新書)』2015 8、安藤広道「弥生時代における生産と権力とイデオロギー」国立歴史民俗博物館研究報告 152 2009 03、安藤広道「川崎・横浜市域の弥生時代後期の社会」神奈川県考古学会 平成8年考古学講座 かながわの弥生時代の社会 ―後期の環濠集落から考える― 1997 03 、石川日出志「関東地方弥生時代中期中葉の社会変動」 駿台史学会 2012 06、石川日出志「弥生時代中期関東の4地域の併存」駿台史学 第1021998 2、「矢上で大規模遺跡発見 竪穴式住居60軒以上見つかる」慶應塾生新聞2011 04、「港北区慶応大矢上キャンパス 日吉に巨大集落が存在か 弥生時代の竪穴住居群を発掘」タウンニュース緑区版 2011年3月17日、神奈川県立博物館発掘調査報告書梶山遺跡(1) 神奈川県立博物館1968 03、『神奈川県立博物館発掘調査報告書11:上台遺跡』1979 03、「川崎市地震被害想定調査報告書 第2編 自然条件の調査」 川崎市 2023 03、「長尾台遺跡」「東高根遺跡」 川崎市教育委員会、「川崎の遺跡」川崎市生涯学習財団





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