2025年11月21日金曜日

10月25日、茨木市の郡・倍賀(こおり へか)弥生時代遺跡に行きました

 自宅から比較的近いので、遺跡には自転車で行きました。

この地図は、『公益財団法人 大阪府文化財センター調査報告書第295集 郡 遺 跡・倍 賀 遺 跡 1』から借りました。

地図の左下にJR京都線の茨木駅、中央下付近に阪急京都線の茨木市駅、右上に同総持寺駅が見えます。上部右から右下に向かって流れているのが安威川です。

上部中央から下に向かって曲がりくねりながら下がって見える道路のような川のようなものは、元茨木川の流れの跡で元茨木川緑地の連なりとなっています。元茨木川は安威川に流れ込むように流路変更工事が行われて1949年に廃川となりました。


元茨木川緑地に沿っている道路の一部は川端通りと呼ばれています。川端康成氏は茨木市出身で、茨木市立川端康成文学館が近くにあります。川端氏の『16歳の日記』は彼の旧制中学性時代の茨木が舞台です。

この写真の右側が郡・倍賀遺跡の場所です。今はAmazonの建物が建っています。流通倉庫でしょうか。南から北を見ています。
茨木インターが近いので茨木市には倉庫が多いようです。左側は茨木市立中央図書館です。

この写真はひとつ前の写真の場所から右(東)に移動してAmazonの建物の裏側が写っています。この付近は何度も発掘が行われていますが、このガランとした空き地が2023年~2024年の発掘現場のようです。
「調査では、弥生時代の竪穴建物が50棟以上、木棺墓が13基など、足の踏み場がないくらい濃厚に遺構が見つかっていますとのことです。(「郡遺跡・倍賀遺跡発掘調査【 全体解説編】」youtube 公益財団法人 大阪府文化財センター)

また「この遺跡の墓域は周辺のムラ人も共同で造墓ができる、現代でいう霊園のような場所だった可能性もあ」ると報告されています。(同上)

遺跡の時期については、「集落域ではⅤ様式の早い段階で環濠が完全に埋められる。その後周辺には3082土坑や4170・4187土坑などが築かれるが、集落は次第に解体に向かい、Ⅴ様式後半には完全に姿を消す。古墳時代布留式期の遺構もわずかに1基のみ3138土坑が確認されているが、それ以外にはまったくなく、人々が生活していた様子はうかがえなくなる。」とのことです。弥生時代中期に多くの人ばいた場所は古墳時代前期には無人となってしまったようです。

また、茨木市の弥生遺跡といえば東奈良遺跡が有名ですが、郡・倍賀遺跡もとどのような関係になっているのかまだはっきりしないようです。

この橋は安威川にかかる西河原新橋です。おもしろい形です。日本橋梁建設協会のの橋梁年間データベースでは橋梁形式が「ニールセン橋」となっていますが二重になっている場合もニールセン橋でいいのでしょうか?
よくわかりません。


いまの茨木川と安威川の合流地点です。安威川の左岸(東側)から見ていますので遠くに見えるほうが茨木川です。遺跡は対岸の奥のほうになります。


参考:『郡 遺 跡・倍 賀 遺 跡 1茨木市文化財資料集第71集 公益財団法人 大阪府文化財センター調査報告書第295集 2018、「郡遺跡・倍賀遺跡発掘調査【 全体解説編】」youtube 公益財団法人 大阪府文化財センター、大阪府茨木市 「【報道提供資料】 郡遺跡・倍賀遺跡で弥生時代の集落みつかる ―2,000年前のムラの全貌が判明―」2024、茨木市教育委員会・公益財団法人大阪府文化財センター「郡遺跡・倍賀遺跡 発掘調査現地説明会資料」2024、茨木市教育委員会  『大阪府茨木市倍賀遺跡発掘調査概要報告書』 1993、大阪府茨木市『倍賀追跡発掘調査概要報告書―平成4年度発掘調査概報』、茨木市教育委員会『茨木市郡遺跡発掘調査概報 1978 、茨木市教育委員会  『郡遺跡発掘調査概要報告書』2005、大阪府茨木市【報道提供資料】 、茨木市教育委員会『平成2年度 埋蔵文化財発掘調査概要」1991

2025年11月17日月曜日

11月6日、愛知県清須市の弥生時代遺跡、朝日遺跡に行きました

 朝日遺跡に行くために、まず名鉄名古屋本線の新清洲駅で降りました。

静かな駅です。

清須市観光協会で作っている清須城周辺マップです。これがいちばんシンプルでわかりやすいと思いました。
左下端の新清洲駅から川沿い(五条川)に清洲城に寄って、そのあと右のあいち朝日遺跡ミュージアムに行き、帰りは左下の東海交通事業線尾張星の宮駅に出るコースを歩きました。

いきなり脱線ですが、新清洲駅の西口(清州城とは反対側の出口)すぐにフランス人のアランさんの店「Pain de Muët」があります。とてもおいしい。

五条川沿いに清州城のほうに行きます。

清州城です。信長が生きていたころにこのような天守はなかったと思いますが、どのようなモデルによって作っているのかよくわかりません。

よくわからないのでお城は通りすぎて(お城の前でパンを食べてから)朝日遺跡ミュージアムに向かいます。住宅があったり工場らしい建物があったりする地域です。

あいち朝日遺跡ミュージアムに到着しました。立派な施設です。

朝日遺跡全体の広さはたいへんなもので、80 万㎡を超えるだろうということです。
ミュージアムの展示によると、佐賀県の吉野ヶ里遺跡が100 万㎡、大阪府の池上曽根遺跡が60 万㎡、奈良県の唐古鍵遺跡が30 万㎡ですのでその広さがわかります。

この遺跡ミュージアムのある場所は広い朝日遺跡の南西端のあたりで、ここは弥生人が最初に定住したエリアのようです。
弥生中期の大きな集落跡はおもに地図の清州JCTのあたりになります。
ミュージアムの「変遷と年代」によると弥生時代にこの遺跡は以下のような経過をたどったとのことです。

弥生時代前期(紀元前6~前4 世紀)
南側に貝塚が点在。初期の集落は径150 メートルほどの環濠集落。西日本の遠賀川式土器を使用。谷の北側には環濠をもたず縄文時代の伝統を引き継ぐ条痕文系土器を使用する人々が居住。

弥生時代中期前葉~中葉(紀元前4~前2 世紀)
集落が大きく広がり、南居住域と北居住域、東墓域と西墓域など、配置が定まった。北居住域の南側には、環濠・逆茂木・乱杭等からなる強固な防御施設が築かれた。東墓域には大小の方形周溝墓がつくられ、なかには30 メートルをこえる全国最大規模の墳墓も。玉作り、土器、石器、木製品、骨角器など、ものづくりと交易の拠点的な集落として発展。

弥生時代中期後葉(紀元前2~前1 世紀)
瀬戸内地域や近畿地方の影響が強くみられ、集落の構造にも大きな変化。環濠が掘られなくなり、居住域の区画が不明瞭になる。墓域は小グループに分かれ、古い墓を壊して新しい墓がつくられることもあった。中央の谷には砂が厚く堆積した。この頃気候の変化により頻繁に洪水が起こった。

弥生時代後期~終末期(1~3 世紀)
北居住域と南居住域に再び環濠が掘られ、居住域を取り巻くように墓がつくらた。南居住域の環濠の外には、銅鐸が埋納された。また、北居住域の東側では、水路に設けられたヤナ状遺構がみつかった。弥生時代終末期には、環濠に大量の土器が捨てられ、集落は衰退していった。

ミュージアムの屋外にある弥生時代初期の環濠の復元です。

同じく貝塚です。

ミュージアム内の展示内容は、わかりやすく見ごたえのある展示でした。
博物館HPの「オンライン博物館」にそれらは掲載されています。

尾張星の宮駅です。不思議な駅です。
駅から遺跡方向(清州JCT方向)を見ています。
高速道路が見えます。弥生時代も戦国時代も今も流通のためにの重要な場所というべきなのかもしれません。

参考:財団法人愛知県教育サービスセンター 愛知県埋蔵文化財センター『愛知県埋蔵文化財センター調査報告書131:清洲城下町遺跡』 2005 、(公益)愛知県教育•スポーツ振興財団 愛知県埋蔵文化財センター「清洲城下町遺跡現地説明会資料」2011、『愛知県埋蔵文化財センター調査報告書30:朝日遺跡』 1991 、『愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第138集 朝日遺跡Ⅶ (第3分冊 総括)2007、あいち朝日遺跡ミュージアムHP


2025年11月14日金曜日

11月5日、奈良市の聖武天皇陵、正倉院展、柏木遺跡(弥生時代)に行きました

正倉院展を見るために奈良市の奈良国立博物館にやってきましたが早く着きすぎてしまったので、県庁前東交差点から北に歩いて聖武天皇陵(佐保山南陵)に向かいました。

北に歩いて行って、転害門前を西に曲がります。聖武天皇陵近くの町は落ち着いたところです。

聖武天皇陵にやってきました。ずいぶんすっきりとしています。

こちらはその東隣にある光明皇后陵(佐保山東陵)です。

佐保川にかかる法蓮橋です。

奈良国立博物館に戻ってきました。今年の有名どころは蘭奢待や瑠璃杯、また平螺鈿背円鏡あたりでしょうか。たいへんな混雑で恐れ入りました。窮屈さで苦しくならないうちに一通り見るだけ見て急いで博物館から出てきました。

人ごみにあてられて、また律令国家の圧力感があまりに重苦しいので広い空間を求めて近鉄奈良駅前からバスに乗って弥生時代の柏木遺跡にやってきました。
上の写真は柏木バス停で降りて、遺跡の南側から遺跡に近づいているところです。混雑からやってきたのでほっとしています。

これは「平城京に眠る弥生文化』の「弥生時代の遺構検出地点」から一部を拝借しました。
(奈良市埋蔵文化財調査センター『平城京展図録20:平城京に眠る弥生文化』奈良市教育委員会 2003)
一部を切り取るのはいかがなものかとは思いますが、奈良市内の弥生時代のざっくりとしたイメージを得たいと思ったのです。
画面左端の線路が近鉄橿原線で駅があるのは尼ヶ辻駅、上部右に見える駅が近鉄奈良線の新大宮駅、右端の線路がJR関西本線で駅はJR奈良駅です。
数字のついた丸印は既発掘地点で、赤い印は弥生時代前期、グリーン印が同中期、オレンジ印が同後期の遺跡です。
今回見に行った中期の柏木遺跡(方形周溝墓18基を検出)は14番で、15番は同じく中期の大安寺西遺跡です。寺沢薫氏の「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」によると大安寺西遺跡が「佐保川下流の拠点集落か?」と記述されていて、柏木遺跡は「大安寺西の墓地か?」となっています。

前期遺跡は4番の佐紀町平城宮南西隅、5番の二条大路南に見えます。

8番から12番あたりは四条大路一丁目~二丁目の弥生中期遺跡です。19番は平城京左京三条二坊十四坪下層遺跡。

22番はJR奈良駅南方の大森町遺跡で、23~25番は駅周辺の三条遺跡です。この辺りは弥生後期遺跡のようです。

奈良市内で弥生遺跡の発掘を行うということは平城京の遺跡を破壊するということになりますので調査は限定された場所にならざるを得ません。このため、市内の弥生時代の全貌はまだまだ分からないようです。

写真の左側が柏木遺跡です。右にあるのは柏木北池の堤です。北から南を見ています。
この写真は下の発掘当時の写真の右下端あたりから撮っています。

この写真は、『奈良市埋蔵文化財調査概要報告書 平成9年度』所収の「柏木遺跡・平城京左京五条一坊十六坪の調査」にある遺跡の写真です。北側から南に向かって撮影しています。

静かな地域の散歩を堪能したので、新大宮駅に向かって今度はバスに乗らずに奈良バイパス沿いに北に向かって歩いていきます。三条大路二丁目あたりです。

大宮通りを東に行ってショッピングセンター、ラ・ミーナ前には長屋王邸跡説明版があります。大量の木簡が見つかったところです。

さらに大宮通りを東に行くと奈良市役所が左にあって道路の向かいにはJWマリオット・ホテル奈良があります。このホテルの付近が先に見た地図の19番の場所で、平城京左京三条二坊十四坪遺跡、大宮町7丁目/芝辻遺跡が広がっていました。2016年に「弥生時代の水田跡見つかる」と新聞で大きく報道されています。

一日よく歩きました。これは大宮橋から見た佐保川です。見てきた柏木遺跡や奈良市役所前の遺跡も佐保川あっての生活の跡といえるでしょう。

参考:「大森町周辺に広がる弥生時代の集落」奈良市埋蔵文化財調査センター速報展示資料 No.29 2007、奈良市埋蔵文化財調査センター『平城京展図録20:平城京に眠る弥生文化』奈良市教育委員会 2003、菅原正明『平城宮発掘調査報告 古墳時代Ⅰ第Ⅴ章 考察』奈良文化財研究所学報第39冊 1981、奈良市教育委員会『柏木遺跡・平城京左京五条一坊十六坪の調査 第370次』奈良市埋蔵文化財調査概要報告書 1998、寺沢薫「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」纒向学研究センター研究紀要 纒向学研究第4号 2016、産経新聞ニュース「弥生時代の水田跡見つかる 奈良市内で初の大規模 石包丁や和同開珎も出土」2016年6月24日、奈良県立橿原考古学研究所「平城京左京三条二坊十四坪 (下層遺構)発掘調査 現地説明会資料」2016 年 6 月25日

2025年11月12日水曜日

10月30日滋賀県野洲市の大岩山古墳群に行きました(銅鐸博物館、宮山二号墳、円山古墳、天王山古墳、甲山古墳、大塚山古墳、亀塚古墳、冨波古墳、古冨波古墳)

 大岩山古墳群はJR東海道本線の野洲駅からバスで行きます。辻町バス停で降りました。

古墳群の位置関係が一番わかりやすいと思ったのが下の地図です。(桜生(さくらばさま)史跡公園の説明版にありました)

左下から右上にかけて線路が走っています。上が東海道本線、下が東海道新幹線です。右上方向が彦根や米原方向、左下が野洲、大津方向です。

まず銅鐸博物館(正式名称は野洲市歴史民俗博物館)に向かいます。
この付近では1881年(明治14年)出土の現存する銅鐸で最も大きなものや昭和に出土のものを含めて24もの銅鐸が出土しており、ここの展示物は圧巻です。

銅鐸博物館敷地内にある宮山二号墳。直径15メートル、高さ3.5メートルの円墳で横穴式石室が南南西に開いている。600年前後に作られたとのことです。

円山古墳。直径28メートル、高さ8メートルの6世紀初めの円墳。西側に入り口がある横穴式石室があります。

天王山古墳。北に前方部を向けた6世紀初頭の前方後円墳。前方部から後円部を見る。
全長50メートル、高さ約8メートル。

甲山古墳。6世紀前半の円墳。直径約30メートル、高さ10メートル。西に開口する横穴式石室がある。
ここまでが新幹線線路の東側にある古墳です。

大塚山古墳と新幹線です。

大塚山古墳の説明版です。




あちこち寄り過ぎたので、大急ぎで歩いて、ようやく東海道本線の下をくぐって西側に出てきました。いい感じの古くからの人里という雰囲気です。

生和(いくわ)神社です。

神社の少し先の亀塚古墳です。墳丘はかなり削られてはっきりしないようで、全長45メートル以上の5世紀後葉から末頃の帆立貝型か前方後円墳とのことです。

実は、今日の目的地はこの富波(とば)古墳でした。

現地の説明です。「大岩山古墳群の中で最古」ということで興味津々だったのです。

墳丘は削平されていたとのことでかたちがわかりにくいのですが、この角度の写真ですこし想像できるでしょうか?右手前が後方部で左の後ろ方向が前方部です。この写真の右にある半円形は円形周溝墓が検出さてた跡を示しているようです。
円形周溝墓から前方後方墳への変化の間に、語りや祈り、流通、生産などでどのような変化があったものでしょうか。
たぶんそもそも近代の用語(例えば「他界観」などという用語)では古代のイメージを得ることはむつかしいのでしょう。

最後に寄ったのが古富波山古墳。4世紀初頭築造で冨波古墳に次ぐ円墳。墳丘の直径は約30メートルで盛土は1.5メートルを残しています。
説明版では「安氏」の首長墓と考えられるようなことが書かれています。この時代に「氏」があったのでしょうか??

このあたりの開けているところからは三上山がきれいに見えます。

帰りは生和神社前バス停から野洲駅に戻りました。
ただし、このバス便は一日にほんの少ししかありません。


参考:野洲市「大岩山銅鐸と滋賀県出土銅鐸・小銅鐸」、角健一「冨波古墳の再検討-出土遺物や形態から」「文化財だよりNo166」財団法人滋賀県文化財保護協会1991