2025年10月12日日曜日

9月22日、埼玉県和光市牛王山(ごぼうやま)遺跡に行きました

 

和光市の牛王山遺跡の場所は東武東上線の和光市駅の北東方向です。

牛王山遺跡に行くには、和光市駅の北口から東武バスの「和03」という路線に乗ります。

降りる停留所は新倉(にくら)坂下です。

停留所からほんの少し駅の方に戻ると遺跡に登っていく坂道があります。

坂の途中には狭間稲荷神社があります。

さらに上っていくとわかりにくいのですが新河岸川から荒川方向の河川敷の一部が見えます。向きは北東方向です。
この高台の感じはどこかで見たような気がして、思い出してみると川崎市の長尾台遺跡の上から見た多摩川方面の感じでした。以下がリンクです。

写真とことば : 川崎市の後期弥生時代(3月10日長尾台遺跡・東高根遺跡、3月16日梶山遺跡・上台遺跡・上台北遺跡、3月19日矢上上ノ町遺跡(日吉公園)・矢上台遺跡(慶應義塾大学矢上キャンパス)

遺跡の写真です。いまは原っぱになっています。市では遺跡保存計画を策定していますのでだんだん整備されていくのでしょう。

同じく遺跡の現状です。

これは、現地の案内板の一部です。遺跡の重要性が簡潔に書かれています。

ただ、あまりにコンパクトな記述になっていてわかりにくいようです。長くなってしまいますが報告書の一部を要約してみます。無理やり要約していますので報告趣旨が間違っていたら本当に申し訳ないのですが、、、。(石 川日出志「午王山遺跡と弥生時代の動向 」第Ⅴ章 弥生時代集落と出土遺物の分析・検討第4節 」、「第Ⅵ章総括」和光市教育委員会『午王山遺跡総括報告書』和光市埋蔵文化財調査報告書第66集 2019) 

・現代社会の感覚で弥生時代の関東を一つの地域として認識するのは誤りでもっとも地域ごとの差異が顕著な時代

・午王山遺跡は、中期後半に小規模な集落として現れ、後期初頭の空白期を挟んで後期前半から後半にかけて存続

・関東地方で本格的灌漑稲作を基礎とする集落が出現するのは弥生時代中期中頃。中期後半に関東各地の河川流域に灌漑稲作農耕集落群が形成され始めるが午王山遺跡周辺には環濠を持つ大型集落はない

・南関東の中期後半の土器の分布は、南関東は静岡方面と、北西関東は長野方面と、茨城県周辺は東北地方南部とそれぞれ強い関連を持つ。牛王山遺跡は静岡方面の土器分布圏に属す

・午王山遺跡には関東・中部地方一円と同じく後期初頭に一時的な空白期がある

・後期初頭から前半にかけて遺跡の分布密度は飛躍的に高くなる。午王山遺跡は、その中で二重環濠をもつ集落であり遺跡群の中核を占めた可能性が高い

・関東地方では後期中葉になると東海地方に由来する土器形式の影響が著しくなる。相模川西岸南部域では東駿河系の土器型式が分布を広げ、相模川流域では東三河・西遠江の土器形式が突如出現し、遺跡数と検出住居数が飛躍的に増加する

・一方午王山遺跡を含む武蔵野台地東縁部では東遠江の土器の影響が顕著となる。在来系土器分布圏が東海地域に由来する外来系土器の定着によって大きな構造変化を起こす

・後期後半に午王山遺跡では、南関東系と北関東系の土器が共存しており、交流や交易拠点としての役割を果した

この写真は丘から降りてきて遺跡を見ています。左に一部見えるのは埼玉県立和光高校で、遠くの森のように見えるのが遺跡です。写真を撮っている背中側が荒川方向です。

参考:文化財オンライン「午王山遺跡」、和光市教育委員会  『和光市埋蔵文化財調査報告書66:午王山遺跡総括報告書』2019、若狭徹『北西関東における弥生後期の遺跡動態と環境変動』国立歴史民俗博物館研究報告第231集 2022、和光市教育委員会『史跡牛王山遺跡保存活用計画』2022



2025年10月6日月曜日

9月15日、愛知県犬山市 東之宮古墳に行きました

 


東之宮古墳に行くにはまず、名鉄犬山線の犬山遊園駅で降ります。
駅から古墳への行きかたは下の駅前案内板の通りです。木曽川の南、犬山遊園駅の東です。

車の場合は南の成田山の駐車場に向かうのでしょうが、駅から歩いていく場合は駅の東の龍済寺や龍泉寺の前の道を上って行きます。

左のお寺が臨済宗妙心寺派の龍済寺で、上の地図中にある瑞泉寺の塔頭です。

成田山のある広場です。東之宮古墳入口の看板があって、看板奥に登り口があります。正面に見えているのが東之宮古墳の木立です。

古墳に着くと解説版がいくつもあります。これはもっともシンプルな案内(南解説板)の一部です。

同じ案内板にある古墳のプランです。

古墳に登って前方部から後方部を見ています。

今度は後方部から前方部を見ます。


成田山から見た犬山城です。

木曽川を通過する名鉄特急の雄姿です。

「史跡東之宮古墳整備完了1周年記念シンポジウム」を youtubeで見ていると、この古墳では冬至の日の出位置が前方部からみて後方部の中央に来るとのことです。またほかの古墳や遺跡の例を挙げて太陽や月、また星の運行が意識されていることを指摘しています。さらにこれらを踏まえて、考古天文学の本格始動という言及もあります。当時カノープスや南十字星は今よりもはるかに見やすかったという話などは楽しい話題です。
天体の運行を強く意識していることは、おそらくそうなのでしょう。漠然と道教などと呼ばれている諸家はポートシティのような北九州から当然日本列島にも流れ込んでいたことでしょう。
ただその諸家は非常に多くあってまた教義もバリアントも無数にあったことでしょう。

それから、この古墳の前方部の先に「大岩」があることが地図にも書かれているます。もしそれが縄文時代までさかのぼる水の信仰に関係するなら、さらに事態は複雑なことになります。いまからもろもろの要素を跡付けて整理することは一体可能なのか?などと思います。

もう一つ興味深い指摘は、古墳の前方部の後ろの先に弥生時代の環濠などが発掘された鵜沼古市場遺跡(各務原市)があることです。というのはどのくらいの古墳にに当てはまるかはわかりませんが、前方部から後方部(後円部)に向かって儀式を行うのが一応の原則であるとするなら前方部の後ろに被葬者のホームがあって、後方部(後円部)の後ろには重要なサンクチュアリがあるというのが落ち着きがいいように感じるからです。
どうなのでしょう?

参考:犬山市史跡「東之宮古墳」、犬山市「史跡東之宮古墳整備計画」2021、赤塚次郎『邪馬台国時代の東海の王 東之宮古墳』新泉社2018 、犬山市「史跡東之宮古墳整備完了1周年記念シンポジウム」 youtube 2022 、岩本崇『東之宮古墳の鏡』東海古墳時代研究会第4回研究会「東之宮古墳の研究はどこまで進んだのか」資料集 2021 、国立文化財機構e国宝「東之宮古墳 鉄鏃ほか」、