2025年6月30日月曜日

6月13日、沼津市の高尾山古墳(前方後方墳)に行きました

高尾山古墳は2004年~2014年にかけて調査が行われた古墳です。3世紀前半の、東日本で最古級で最大級の前方後方墳です。

まず、JR沼津駅から北に向かいます。駅の北口でバスを探しましたが古墳の近くに行くバスが来る気配がないので1キロ半ほど歩きます。

沼津バイパスまで来ると、歩道橋の上から高尾山古墳が見えます。

全長:約62.178m(前方部:30.768m、後方部:31.410m)です。

全貌がわかりにくいので、「高尾山古墳見学会資料( 沼津市教育委員会事務局文化振興課 沼津市建設部道路建設課令和5年1月)から航空写真を拝借します。東側(右側)に道や建物が見えるのは神社の境内です。熊野神社と高尾山穂見神社でこれらはもともと高尾山古墳の上にあったそうです。

前方部から後方部です。神社の境内から撮っています。つまり北東から南西方向です。

今度は逆に、後方部から前方部で、南東から北西です。

古墳の西側です。後方部が削り取られています。

沼津市文化財センターの高尾山古墳国史跡指定記念連続講座の記録を読んでいると興味深い言葉が出てきます。下は一例です。
脱 東征史観のススメ」「 古墳とは国家形成の帰結か?」(西 川 修 一「高尾山古墳成立前夜の列島東部の集落の動態とネットワーク)、「高尾山古墳被葬者は、東海西部と関東をつなぐ経済的・政治的ハブを担う」「倭王権の征服史観は採らない」(若狭 徹「関東における古墳出現と高尾山古墳」。
こうしてみると、昔ながらの「歴史は近代国家(あるいは社会主義国家)に向かう運動である」とでも思い込んでいるようなずいぶん長く続いたイデオロギーの時代からようやく風通しがよくなってきたのかもしれません。

来るときに登った歩道橋にまた上って、今度は沼津駅方面を見ています。

帰りは古墳のすぐ近くからバスに乗って沼津駅の南口に到着です。駅の北口ではなく南口から乗れば古墳方面に行くバスがあったようです。

参考:沼津市「高尾山古墳」 2024年10月17日更新、沼津市文化財センター「高尾山古墳国史跡指定記念イベント 高尾山古墳連続講座 『第1回 高尾山古墳成立前夜の東駿河』『第2回 東日本古墳文化の幕開けと高尾山古墳』2024、同 高尾山古墳シンポジウム『高尾山古墳~保存と沼津南一色線の挑戦~』2025、沼津市教育委員会 沼津市文化財センター「スルガ最初の王ここに眠る 高尾山古墳」2016、沼津市教育委員会『高尾山古墳発掘調査報告書』2012、沼津市教育委員会事務局文化振興課 沼津市建設部道路建設課「高尾山古墳見学会資料」2023、沼津市 報道取材情報「高尾山古墳が国史跡に指定されました」2024

2025年6月29日日曜日

6月8日、大津市皇子山古墳(一号墳、二号墳)に行きました

大津市の皇子山古墳にはJR湖西線大津京駅から歩いていきました。

駅構内の航空写真で遺跡の位置関係を確認します。右下の大津京駅から北(上)に行くと京阪近江神宮前駅があり、その付近一帯が天智朝の近江宮跡です。内裏のまっすぐ左に緑地のように見える丘がありますが、ここが皇子山古墳のあるところです。
左側に琵琶湖が広がっています。

JR大津京駅から京阪近江神宮前駅に向かう道です。西近江路と呼ばれていたそうです。

錦織遺跡第1地点(第一地点)です。大津宮内裏の東南隅にあたるとのことです。このあたりをには点々と発掘地が広がっています。
万葉集にあるいくつもの近江荒都歌から近江京地域を広い原であるかのように想像していましたが思ったより狭い地域のようです。

皇子山一号墳の後方部から前方部方面です。
墳丘は全長約60メートル、後方部幅約35メートル、南に向けた前方部の幅約28メートルです。

一号墳の上に登ってから西を見ています。下を国道161号が走り、京都の北白川に向かう山中越が山の中に入っていきます。

逆に、前方部から後方部を見ています。
建造年代ですが、『前方後円墳の謎』では紀元300年あたりに位置づけられています。
現地案内板では4世紀後半となっています。
また、滋賀県文化財学習シートでは「1970年当時には、この古墳が4世紀後半台の滋賀県でも最古級の古墳とされていましたが、近年の調査により、神郷亀塚古墳、小松古墳など、3世紀にさかのぼる前方後方墳が次々に発見され、皇子山古墳の古墳時代における位置付けについても、様々な考えが出されるようになっています。」と記述されています。
意味が分かりません。

すぐ近くにある皇子山二号墳です。東西径約20メートル南北径約23メートルで、建造時期は一号墳に近いようです。


古墳の丘から下りるときに琵琶湖の方を眺めます。わかりにくいですが三上山が見えます。

京阪近江神宮前駅に向かって坂を下ります。静かな住宅街です。

近江神宮前駅から京阪電車に乗って帰ります。

参考:植田文雄『前方後方墳の謎』学生社2007、吉水眞彦「近江大津宮をめぐる諸問題」国立歴史民俗博物館研究報告 第179集 2013、「皇子山古墳」文化庁文化遺産オンライン、「皇子山古墳」滋賀県教育委員会 滋賀県文化財学習シート010

シート一覧
https://www.shiga-ec.ed.jp/www/contents/1438304524592/index.html

2025年6月5日木曜日

5月21日、城陽市の芝ヶ原古墳に行きました

 5月21日、城陽市の芝ヶ原古墳に行きました

三世紀庄内式期の周溝墓や古墳について書かれたものを読んでいると、墳墓のかたちは摂津では円形が普及していて、河内では方形が卓越するという記述に出会いました。
前方後方形周溝墓は濃尾平野から近江に多く、円形周溝墓は吉備・播磨・讃岐など瀬戸内地方東半部が中心というイメージでしょうか。
すると、近江から河内湖に沿って河内に至るという影響関係の行程がおもしろく、小路前方後方形周溝墓 や久宝寺南第1号墓など、どこでもいいのですが河内の遺跡に行ってみたいと思いました。
しかし、見学できるような遺跡は見つけられませんでした。
そこで、有名な芝ヶ原古墳(芝ヶ原12号墳)に行くことにしました。

芝ヶ原古墳の場所

これは、芝ヶ原古墳の脇に置いてある地形図の一部を撮影したものです。古墳や遺跡を貫きながら下(南)に伸びる線路がJR奈良線で、上(北)が京都方面、画面外すぐ下に城陽駅があります。左上隅にようやく見えるのが近鉄奈良線の久津川駅です。
正面やや左が久世廃寺跡、やや上右端が正道官衙遺跡、その左上で黒い枠で囲ったところが芝ヶ原古墳、画面上で一部切れている二つの古墳の右側の小さいほうが帆立貝型の丸塚古墳、左側の大きなほうが久津川車塚古墳です。

久世廃寺跡

JR城陽駅から線路の近くの道を北に歩いていきます。
こういう風景はとても好きです。

JR奈良線の電車が通ります。

久世廃寺跡に着きました。法起寺式伽藍配置で奈良時代初めの創建のようです。基壇らしきものが見えます。

久世廃寺跡の東隣にある室町時代建立といわれる久世神社です。この裏手に5世紀代の古墳が集中する芝ヶ原古墳群があります。

久世神社の横をさらに北に歩いていくと万葉集に登場する久世の鷺坂があります。

 白鳥の鷺坂山の松蔭に宿りて行かな夜も更けゆくを(巻9 1687)
 栲領巾(たくひれ)の鷺坂山の白つつじ*我ににほはに妹に示さむ(巻9 1694)
                               *我ににほはに=私を染めてくれ
 山背の久世の鷺坂神代より春は萌(は)りつつ秋は散りけり(巻9 1707)

左注によるといずれも柿本人麻呂歌集にあるとのことです。
この付近の歌のうちこの3首に植物のテーマが集中します。
鬱蒼とした古墳群の森の横を過ぎる際には歌を詠むべきだったのでしょうか。

久世神社の東方にある正道遺跡(久世郡衙跡)です。見晴らしの良い土地にあり、あたりを見下ろすようなところです。

芝ヶ原古墳(芝ヶ原12号墳)にやってきました。
墳丘の平面形は、南北21メートル、東西19メートルの方形部の南辺に突出部を有する前方後方形で、かなり大きく感じます。出土した土器は「庄内式」の中でも古い様相をもっているということです。

このあと、近鉄奈良線の久津川駅まで歩いて帰路につきました。

さて、方形の卓越が濃尾、近江、南山城、河内に連なっている時期があったとすると、この時期には大和南東部は畿内の中心地域と言えるほどのマーケットの力あるいは宗教的な権威はなかったということだったのでしょう。
むろんそれらは概括した場合の傾向であって、実際には複雑なものや人的なネットワークが広がっていたに違いありません。ぜひそれらを知りたいものです。

参考:城陽市史跡巡りマップ(城陽市)、城陽市内の見学できる古墳(城陽市役所教育委員会事務局歴史民俗資料館)、中村大輔ほか「玉類の流通と芝ヶ原古墳」埼玉大学紀要(教養学部)第50巻第1号 2014、文化庁「文化遺産オンライン芝ヶ原古墳」、杉本厚典「河内地域の庄内式期・布留式期の墳墓について」(大阪歴史博物館 研究紀要第11号2013)、福永伸哉「大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係」(待兼山論叢. 史学篇. 2008)

2025年6月1日日曜日

5月2日、京都国際写真祭(KYOTO GRAPHIE)に行きました

 5月2日、京都国際写真祭(KYOTO GRAPHIE)に行きました

今年も京都国際写真祭に行ってきました。
と言っても、行ったのは数ある会場のなかで2か所だけです。

1か所目は四条烏丸に近い八竹庵(旧川崎家住宅)で行われていた写真展「The Logic of Truth (Adam  Rouhana)」です。




撮影したRouhana氏はパレスチナ系アメリカ人で、パレスチナの日常生活が写っています。写真は、いわば撮影対象への好意に満ちた旅行者の視線を感じさせるもので、イスラエルの地域内の内戦をめぐるジャーナリズムのステレオタイプから離れた自由な視線が一貫しています。写真を見て回ると快いリズム感を感じます。

もう1か所見に行ったところは、京都国際写真祭サテライトイベントとされている「KG SELECT 2025」という写真展です。場所は二条城に近い堀川御池ギャラリーです。
これは、10年以上続いているKG SELECT  Awardという取り組みで、「キャリアや世代を問わず世界中から集まったエントリーの中から国際的に選出された10組のアーティストを紹介」するということです。
詳しい仕組みや京都国際写真祭との実際の関係はわかりません。ドイツ、メキシコ、フランス、日本から、京都国際写真祭主宰者と関係が深い人々が審査をしていて、SIGMAがスポンサーのようです。

堀川御池ギャラリーは京都堀川音楽高校の関係施設のようです。このあたりは平安時代の堀川院のあったところですね。

「病院」サンヒョン・ソン(SangHyun Song)

「Work naming has yet to succeed」何兆南(HO Siu-Nam)

いずれの写真も映像自体たいへん力強いものでした。十分に「写真を見た」という経験に浸ることができます。
それぞれ、香港の民主主義圧迫であるとかフェミニズムであるとかテーマ性を帯びているように、紹介文では説明されていました。しかし素直に写真を見ている限りでは、それらの説明は「The Logic of Truth」におけるパレスチナ問題のように、衣装に過ぎないと思われます。
通常、意図せずに写真に写ってしまったものの力はテーマの力よりも強いと言えます。
もっとも、写真は社会問題に引き寄せたほうがポピュラーになりやすいのでそれはそれで戦術としては重要なのかもしれません。
毎年京都国際写真祭に来て思うことですが、このイベントは本当に大したビジネス上の力量によって支えられているようです。妙な「芸術的」なイメージ作りよりもやや社会派的にふるまったほうがイベントの広がりを作るためには効果的なのでしょう。

参考:『KG+SELECT 2025 Official Book & POST CARD』、「KYOTO GRAPHIE 2025 MAIN PROGRAM」