2024年3月9日土曜日

3月1日、喜連瓜破に行きました

 3月1日、喜連瓜破に行きました。

喜連瓜破は「きれうりわり」と読みます。谷町線の駅でおります。喜連については、古事記伝に「河内国伎人郷とある処なるを訛って喜連というなり」とあります。「伎人」は「くれひと」です。

場所は、いまの大和川の北側で国土地理院のデジタル標高地形(技術資料番号:D1-No.969)ではこの地域が微高地になっているのがわかります。
北に少し歩くと如願寺があります。縁起では、聖徳太子創建の大伽藍であったと書かれています。喜連の環濠集落の中心地だったのでしょう。
喜連には環濠が残っているわけではありませんが、いい感じです。
今度は南に戻って、喜連瓜破駅を超えてさらに南に行きます。瓜破霊園に入ると5世紀のこじんまりとした円墳、花塚山古墳があります。
霊園の中を歩いていると瓜破遺跡の案内がありました。整備されて目に見えるようにした遺跡があるわけではありません。
瓜破遺跡は、江戸時代に北流していた大和川を現在のように西に向かって流れるように付け替えた際に瓜破遺跡を横断して開削されたため、古くから河川敷で土器などが採集されていました。旧石器時代の石器なども出土していますが、とくに弥生時代の前期から後期までを含む大きな遺跡として著名です。
続けて南に歩いていくと瓜破会館があって、1階に展示コーナーがあります。弥生時代中期の石鏃です。やや怖いですが、美しいものです。
 南にさらに行くと大和川に到着しました。南東の方を見ています。中央やや左に二上山が見えます。弥生時代にはこのあたりには大和川はなくて大きな弥生集落が広がっていたようです。
このあたりは飛鳥時代からの寺社が点在しています。敬正寺です。平野区の説明では道昭法師創建の永楽寺の遺跡と書かれていました。道昭法師は船連(ふねのむらじ)出身で行基のお師匠さんです。行基は高志市出身ですからともに古墳時代の移住者系です。
近くに、道昭が天神に瓜を割って供えた故地と言われる瓜破天神社もあります。
これはおまけです。
喜連瓜破に行った次の日(3月2日)にあべのハルカスに行きました。展望台から東を見ています。中央すこし右のほうに二上山が見えます。

参考:大阪府文化財センター・大阪府教育委員会『瓜破北遺跡1~3』、大阪市文化財協会『長原・瓜破遺跡発掘調査報告1~19』、大阪市「平野区の都市景観資源(わがまちナイススポット)」、大阪市平野区「喜連・瓜破コース(約5.8キロメートル)」







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