2024年5月6日月曜日

5月4日、富雄丸山古墳に行きました

蛇行剣と盾形鏡が出土した富雄丸山古墳に行きました。ミーハーです。 

まず、近鉄奈良線の富雄駅で降りて南に行きます。富雄川沿いを行くと添御縣県坐神社に着きます。

「そうのみあがたにいますじんじゃ」と読みます。祭神は建速須佐之男命、武乳速命(県主の祖先神)、櫛稲田姫命となっています。
とてもめずらしい形式の神社です。
添という地名は以前から気になっていました。神武紀で、ナガスネヒコが死んでヤマトがすでに平定されたすぐ後のところに「層富(そほ)県の波多丘岬(はたのをかさき)に新城戸畔(にひきとべ)というものあり…」とあって、「その勇力(たけきこと)を恃みて」帰順しなかったので「皆誅さしめたまふ」とあります。
「波多」はこのちかくの赤膚、五条山あたりを指し、「新城」は大和郡山市新木のようです。

富雄川沿いをさらに南下して第二阪奈道路を超えてすぐに巨大なイオンモールがあり、富雄丸山古墳はこのすぐ近くです。残念ながら立入禁止。

このあたりは住宅街と農地が混在しています。古墳のある丘の横は住宅街です。住んでいる人たちは古墳からたいへんなものが出土してビックリしていることでしょう。
ひとつ気になったのですが、どうもこのあたりからは宝来山古墳(垂仁陵)や佐紀盾列古墳群は、宝来や赤膚の丘があるので見ることはできないようです。
てっきり富雄丸山古墳から見えると思っていましたが間違いのようです。繋がっている地域と考えないほうがいいのでしょうか。富雄丸山、宝来山、佐紀盾列ともに大きく時代が違うこともないと思いますが…。

この写真は先月の4月5日に橿原考古学研究所付属博物館で見た蛇行剣です。長さの感じがわかるでしょうか?

蛇行剣です。すごいものです。

また富雄です。
その後、こんどは北に戻ります。第二阪奈道路(写真右)をまた超えて、東を見ています。赤膚方向です。

富雄駅に向かってさらに北に行くと霊山寺(りょうせんじ)があります。門前の富雄川です。ここからバスで富雄駅に戻りました。

帰りに尼ヶ辻駅で降りました。この駅で降りたのは何十年ぶりでしょうか。はるか昔ですが、編集者時代にご著書出版の打ち合わせのためにこの近くで直木孝次郎先生にお目にかかったことを思い出します。温顔、そしてていねいに言葉を選ばれる方という印象でした。


巨大な宝来山古墳はサギやカワウの森となっていました。見にくいのですが、左のほうに点々と見えるのはアオサギです。


参考:『日本書紀』(岩波文庫)


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