7月17日は猛暑の日でしたが、埼玉県所沢市に用事があり、その折に隣の狭山市の西武新宿線入曽駅近くの七曲井と不老川を見てきました。洪積世の古多摩川流域はこの付近のようです。
不老川は一時、水質悪化や浸水被害がありましたがいまは整備されています。護岸工事が進んでいました。この写真の右側に七曲井があります。右が常泉寺観音堂、奥に七曲井があり、左が不老川です。草が茂っていて、また底の方を埋めてあるのでわかりにくいのですが、要は東京都羽村市にあるまいまいず井戸と同じく螺旋状に降りていく形式のようです。古い川の礫層は透水性が良く、乏水地域なので深い凹地を掘りさらに深く井戸を掘るものです。
この七曲井付近の小字名は掘難井で、また近くに堀兼という地域もあってこちらにも堀兼の井があります。
狭山市のウェブサイトでは平安時代の女流歌人伊勢の歌「いかでかと思ふ心は堀かねの井よりも猶ぞ深さまされる」や『枕草子』の「井は堀兼の井」を示して堀兼の井は平安時代にはすでに存在していたとしています。
写真は現在の入曽駅付近の開発の様子で小学校の跡地です。
この堀兼の井は七曲井か堀兼にある井戸のどちらなのか、あるいはまた別のところなのかはわかりません。
これは『武蔵野台地の地形変位とその関東造盆地運動における意義(貝塚爽平)』からの引用です。中央左の狭山丘陵の左(西)から右上(北東)と右下(南東)に向かう立川面があり、これは古多摩川の流れのあとです。そして狭山丘陵の右上に向かう立川面のところに不老川が流れています。
「立川ローム降灰初期(4万~3万年前)の多摩川は、急流で洪水が多発し、小さな河川礫(チャート、砂岩)を、扇状地の武蔵野台地上に広く堆積させた。旧石器時代人は、武蔵野台地を開析して流れる小河川流域を中心に、対岸の多摩丘陵や上流の丘陵地域にも活動範囲を広げていた」とのことです。(「立川ローム第X層文化について―列島最古の旧石器文化を探る②―」小田静夫)
また、現在の立川面以前に武蔵野台地上を広く古多摩川が大暴れしていた武蔵野ロームの時代は約8万~4万年前で、旧石器時代人が関東地方に到来したのは約3万5千年前、立川ローム期ののちに多摩川が現在の流域を流れるようになったのは2万年から1万3千年前のようです。
欅の大木が残っていました。
参考:『東京都地学のガイド』貝塚 爽平 1997 コロナ社、「武蔵野台地の地形変位とその関東造盆地運動における意義」貝塚爽平 第四紀研究 1957、「考古学的視点から見た多摩川の歴史」小田静夫 第1回多摩川流域歴史セミナー2014、「立川ローム第X層文化について
―列島最古の旧石器文化を探る②―」小田静夫 多摩考古43,2013、「首都東京の地形 ―武蔵野台地の区分(最新版)を紐解く―」NPO法人首都圏地盤解析ネットワーク 2020、「
武蔵野台地の新たな地形区分」第四紀研究 2019、「NEW不老川へようこそ」不老川流域川づくり市民の会、狭山市公式ウェブサイト「七曲井」、「都内湧水巡り」公益社団法人日本地下水学会

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