この日は三社祭の最中で、久々にお祭りを楽しむことができました。
浅草神社縁起では三社様は檜前浜成命、土師真中知命、檜前武成命で、浅草浦で観音像を見つけたのが推古36年(西暦628年)となっています。そのころは飛鳥では蘇我氏が政権の中で大きな影響力がある時代(蘇我蝦夷が大臣)です。
このころ作られた方墳は関東にも多くあってそれらは蘇我系ではないかと言われ、蘇我氏の影響力は関東にも大きく及んでいたようです。
蘇我入鹿が聖徳太子の上宮王家を継いでいた山背大兄王を襲って自害させたのは15年後の皇極2年(西暦643年)でこの襲撃者の中に土師娑婆連(はじのさばのむらじ)がいました。
また、檜前氏は東漢直(やまとのあやのあたい)の一族で、東漢氏は蘇我氏の側近です。
こうしてみると、とてもすっきりと納得できる縁起になっています。
実はこの日は三社祭を見に行くことが目的ではありませんでした。
この国土地理院デジタル標高地図を見ていたら浅草あたりに微高地があるのに気が付いたので、普段意識していない古代の地形を実感しに行こうと思ったのです。
この地図の、中央少し右上の隅田川沿い右岸(地図上では川の左、西方面)浅草近辺にグリーンの部分があります。地図上で左手やや下の水に囲まれているところが皇居、中央やや左上のブルーの池のようなところが不忍池です。
そこで、同じく国土地理院の地理院地図でこの付近の標高を見ると、北から待乳山聖天付近は3.2m、浅草寺雷門付近は3.9m、浅草消防署付近は4.9m、少し南の鳥越神社付近は4.1mです。一方その微高地周辺の、鳳神社付近は1.6m、稲荷町駅付近は2.0m、都立忍岡高校付近も2.0mです。
浅草観音側から対岸に渡り隅田川の左岸から右岸の浅草駅方面を見ています。右側の橋が駒形橋です。この写真の中央奥のあたりに駒形遺跡があります。出土品は古墳時代前期の「貝殻の他、土師器高坏・器台・壺・甕など多種多様」ということで、たしかな生活の跡です。場所は分かりやすく言えば場所は「駒形どぜう」のあたりです。この駒形遺跡のあたりまでまた浅草側に戻ってきました。なんとか地形の高低差を実感できないかと思って「駒形どぜう」の西側裏の浅草消防署から西を見ています。写真ではわかりにくいのですが明らかに土地が低くなっていくようです。
鎌倉時代における江戸浅草付近の地形推定図
探してみると、時代は下って鎌倉時代ですがすばらしくわかりやすい図がありました(遠藤毅「東京臨海部における埋め立ての歴史」地学雑誌2004)。これは、菊池山哉『沈み行く東京』上田泰文堂1935からの引用ですので孫引きです。
やはり浅草観音の北から南西に向かって中央に「浅草観音」と書かれている海岸にベルト状の微高地があります。その南西端の神社は鳥越神社のようです。神社の近くでは7世紀ごろから東北地方などで出土する蕨手刀が出土しています。太平洋岸沿いの交易などを想像できます。
周囲は洗足池や姫ケ池に囲まれています。これらの池を埋め立てるために江戸時代に周囲の高い土地を削り取ったようです(古墳時代に島であったところを削平したのでしょう)。
またこの図でおもしろいのは日比谷入江もわかりやすく書かれていることです。今の桜田通りと前島(銀座、新橋)の間は入り江で船が出入りしていた風景を思い浮かべるとうれしくなります。
これは本文と関係ありません。隅田川のクラゲです。
参考:国土地理院デジタル標高地図「江戸川・中川・綾瀬川流域-1」、金竜山浅草寺聖観世音略縁起国立国会図書館デジタルコレクション、遠藤毅「東京臨海部における埋め立ての歴史」地学雑誌2004、白石太一郎『古墳とヤマト政権』文春新書、都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』岩波新書、『日本書紀』日本古典文学大系、「駒形遺跡」「浅草駒形二丁目遺跡出土資料」「台東区遺跡マップ」「台東区遺跡一覧表」台東区






