2023年5月28日日曜日

5月20日、浅草に行きました

 

この日は三社祭の最中で、久々にお祭りを楽しむことができました。

浅草神社縁起では三社様は檜前浜成命、土師真中知命、檜前武成命で、浅草浦で観音像を見つけたのが推古36年(西暦628年)となっています。そのころは飛鳥では蘇我氏が政権の中で大きな影響力がある時代(蘇我蝦夷が大臣)です。
このころ作られた方墳は関東にも多くあってそれらは蘇我系ではないかと言われ、蘇我氏の影響力は関東にも大きく及んでいたようです。
蘇我入鹿が聖徳太子の上宮王家を継いでいた山背大兄王を襲って自害させたのは15年後の皇極2年(西暦643年)でこの襲撃者の中に土師娑婆連(はじのさばのむらじ)がいました。
また、檜前氏は東漢直(やまとのあやのあたい)の一族で、東漢氏は蘇我氏の側近です。
こうしてみると、とてもすっきりと納得できる縁起になっています。


実はこの日は三社祭を見に行くことが目的ではありませんでした。
この国土地理院デジタル標高地図を見ていたら浅草あたりに微高地があるのに気が付いたので、普段意識していない古代の地形を実感しに行こうと思ったのです。
この地図の、中央少し右上の隅田川沿い右岸(地図上では川の左、西方面)浅草近辺にグリーンの部分があります。地図上で左手やや下の水に囲まれているところが皇居、中央やや左上のブルーの池のようなところが不忍池です。
そこで、同じく国土地理院の地理院地図でこの付近の標高を見ると、北から待乳山聖天付近は3.2m、浅草寺雷門付近は3.9m、浅草消防署付近は4.9m、少し南の鳥越神社付近は4.1mです。一方その微高地周辺の、鳳神社付近は1.6m、稲荷町駅付近は2.0m、都立忍岡高校付近も2.0mです。
浅草観音側から対岸に渡り隅田川の左岸から右岸の浅草駅方面を見ています。右側の橋が駒形橋です。この写真の中央奥のあたりに駒形遺跡があります。出土品は古墳時代前期の「貝殻の他、土師器高坏・器台・壺・甕など多種多様」ということで、たしかな生活の跡です。場所は分かりやすく言えば場所は「駒形どぜう」のあたりです。
この駒形遺跡のあたりまでまた浅草側に戻ってきました。なんとか地形の高低差を実感できないかと思って「駒形どぜう」の西側裏の浅草消防署から西を見ています。写真ではわかりにくいのですが明らかに土地が低くなっていくようです。
鎌倉時代における江戸浅草付近の地形推定図

探してみると、時代は下って鎌倉時代ですがすばらしくわかりやすい図がありました(遠藤毅「東京臨海部における埋め立ての歴史」地学雑誌2004)。これは、菊池山哉『沈み行く東京』上田泰文堂1935からの引用ですので孫引きです。
やはり浅草観音の北から南西に向かって中央に「浅草観音」と書かれている海岸にベルト状の微高地があります。その南西端の神社は鳥越神社のようです。神社の近くでは7世紀ごろから東北地方などで出土する蕨手刀が出土しています。太平洋岸沿いの交易などを想像できます。
周囲は洗足池や姫ケ池に囲まれています。これらの池を埋め立てるために江戸時代に周囲の高い土地を削り取ったようです(古墳時代に島であったところを削平したのでしょう)。
またこの図でおもしろいのは日比谷入江もわかりやすく書かれていることです。今の桜田通りと前島(銀座、新橋)の間は入り江で船が出入りしていた風景を思い浮かべるとうれしくなります。

これは本文と関係ありません。隅田川のクラゲです。

参考:国土地理院デジタル標高地図「江戸川・中川・綾瀬川流域-1」、金竜山浅草寺聖観世音略縁起国立国会図書館デジタルコレクション、遠藤毅「東京臨海部における埋め立ての歴史」地学雑誌2004、白石太一郎『古墳とヤマト政権』文春新書、都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』岩波新書、『日本書紀』日本古典文学大系、「駒形遺跡」「浅草駒形二丁目遺跡出土資料」「台東区遺跡マップ」「台東区遺跡一覧表」台東区

2023年5月14日日曜日

4月(2023年)、西国33カ所のうち山寺三カ所に行きました(4/4槇尾山施福寺、4/10岩間山正法寺、4/23安土山観音正寺)

 槇尾山施福寺(大阪府和泉市)

和泉の国の名刹施福寺です。急坂の山の上にあります

施福寺の縁起を読んでいたら気になる記述がありました。「【磐筒男神】(いわつつのおかみ)が降臨されたとされる磐座が山中には今もある」という部分です。この神様の性格は諸説あってよくわかりませんが、刀剣にまつわる神であるとか岩の霊威とする説もあるようです。磐座があるのであれば後者の可能性もあるのでしょう。巨石信仰は雷神や蛇神の結びついていて、つまりは水にかかわる信仰のようです。
槇尾山の山頂の方には蔵岩という巨石があるそうですがいまは立ち入り禁止で近寄れません。
満願の滝

山から下りてきてバスを待っていると売店の方が、すぐ近くの満願の滝も観たらどうかと勧めてくれたので行ってみました。これはこれは、50メートルの落差があるすばらしい滝です。
しっかり蛇がいます

帰りには陶邑が近いのでちょっと寄りました

陶邑跡に見学できる遺構はほとんどないようですが、泉北高速鉄道泉が丘駅近くに
栂第61号窯が移築復元されています。

岩間山正法寺(滋賀県大津市)

岩間山正法寺

山に登る途中の風景、北方面。中央付近に三上山、左手に琵琶湖が見えます

ここでは磐座は見当たらなかったのですが、すぐ近くの上醍醐寺奥の院には陰岩、陽岩という巨石があるということです。磐座信仰と言い、巨石信仰と言っても近代のイメージの信仰のようなものではないでしょう。治水・灌漑の土木工事や日々の農作業と水にかかわる神々への祈りは一体のものだったのでしょう。

このあたりの里はとても気持ちのいいところです。右側の山にお寺があります

そのまま瀬田川まで降りて行って、南郷洗堰に行きました。これは明治36年に設置された堰の一部です。(いまの堰はもう少し下流にあります)
これは琵琶湖の水位と淀川水系の水位を調整するためのもので、水害を防止し農業用水の安定供給を図るためのものです。
明治の土木遺産を見るたびに「土木の夢」といったものを感じます。
時代はまったく違いますが、古墳時代の河内、和泉、近江でも大規模な治水・利水工事を神々に祈りながら夢を持って進めていたのでしょう。いつの時代でも水の制御は日本列島にとっての重要な課題です。

安土山観音正寺

観音正寺には五箇荘の方から裏参道を通って登りました。途中に巨岩があります。

観音正寺。右の石組みは曼荼羅をなしているようです

寺から南方面の展望。右に三上山が見えます

山を下りて観音正寺のふもとにある安土瓢箪山古墳に寄りました。近江の国の中でも古い4世紀半ばの前期古墳です。
安土の里まで来て振り返り、観音正寺・安土瓢箪山方面を望む

参考:facebook西国第4番札所 槇尾山 施福寺2018220日、國學院大學神名データベース、山上伊豆母『古代祭祀伝承の研究』