2023年4月25日火曜日

4月16日、京都国際写真祭の「世界報道写真展」に行ってきました

 

世界報道写真展は京都国際写真祭(2023年4/15~5/14, 主催 一般財団法人KYOTOGRAPHIE, 共催 京都市、京都市教育委員会)の一部でサブタイトルは「レジリエンスー変化を呼び覚ます女性たちの物語」です。何らかの強いストレスを受けた女性たちがレジリエンス(=自己回復力)を発揮している記録という意味のようです。

最近は報道写真という言葉をめったに聞かないので、どうなっているのだろう?と興味を持って行ってみたのです。

この世界報道写真展はジャーナリスト向けの講座や世界規模の写真コンテストを主催するオランダの非営利法人World Photo Pressが毎年各地で行う巡回展のひとつです。内容は最近のコンテスト受賞写真です。

ザンジバル諸島では家父長制のもとで女性の水泳は避けられていましたが、高い溺死率を下げるために泳ぐすべを身につけた生徒がひとに教えることが進んでいます

報道写真ですので、全般に写真が言葉に従属しているのはそうなのですが、それは必ずしもストレートに主張のための挿絵をして使われているというわけでもなく、なにやらコマーシャルフォトに近いテイストです。たしかに、告発よりもレジリエンスに注目するのは現代的といえるでしょう。

コロンビア内戦における女性兵士を長期にわたって共に生活しながら捉えています。その方法を「スロージャーナリズム」と名付けているそうで、コンテスト主催者であるWorld Photo Pressは、「このシリーズは、女性兵士の後遺症や戦争参加についての他の写真とどのように異なっているのでしょうか?」と問いかけています

たしかに興味深いこころみですが、レジリエンスとは本人自身が生活のセルフマネジメントを自ら回復していくプロセスを促進するはたらきですので、その過程を本人が撮影するのがよりふさわしいということにならないでしょうか?いまでは誰でも写真を撮ることができますので、本人の見た風景を見てみたいとわたしなどは素朴に思います。
他者である撮影者であっても、レジリエンスを支援してケアをする関係者であっても視点は外からの視点です。また、フォト・ジャーナリストは「人に見せる」写真を撮る技術に長けているでしょうが、それは実際に起きていることに接近することとは別の話です。

フォト・ジャーナリズムに限らずジャーナリズムは近代国家を支える有力なシステムでした。プロパガンダや宣伝から離れて事実に接近しようとするのは貴重な試みですが、また別のあやうい場所にいるようです。

2023年4月7日金曜日

3月31日、柏原市の高井田横穴群、玉手山古墳群に行きました

 

高井田横穴群はJR関西本線高井田駅のすぐ北側にあります。横穴は総数162基におよび6世紀中頃から7世紀前半にかけて造られたといいます。古墳時代後期です。
墳丘のない横穴墓は関西では少なく、この高井田横穴群や下に載せる安福寺横穴群が稀有の存在のようですが、関東では少なくありません。
埼玉の吉見百穴、茨城の十五郎穴横穴墓群、東京の等々力渓谷横穴群、神奈川の市ヶ尾横穴古墳群などに行ったことがあります。また十五郎穴横穴墓群に近い装飾古墳、虎塚古墳の鮮やかな壁画には驚いたものです。
関東の横穴墓を作った人々と高井田横穴群を作った人々はなにか関係があるのでしょうか?

有名な3-5号横穴の線刻画です。左側は隙間から撮影したものです。
『高井田横穴線刻壁画保存事業報告書Ⅱ―第 3支群 5号墳一』には以下のように書かれています。
「Ⅱ 横穴内の環境改善方法について① 扉の構造は、横穴入り日全面に光が入らないように工夫しながら、約30cmの隙間を空け通風が可能な扉とする」。この隙間から撮りました。
右側は横穴前の説明版の一部です。
これは巫の舞いでしょうか。広い袖に大きな力を感じます。
その右上には船に乗る人物が見えます。

この地図は参考に記載した『玉手山7号墳の発掘調査』から拝借しました。古墳は見事に並んでいます。
意外なようですが、河内には前期の古墳はあまりないようで、ここは珍しいようです。
同書には以下のように書かれています。
「玉手山古墳群は、奈良盆地東南部のオオヤマト古墳群に大王墓が築かれた時期に、王権とつよく結びつき繁栄し、前期末に奈良盆地北辺に佐紀古墳群が形成される頃には衰退が始まり、玉手山丘陵の西側に古市古墳群があらわれる中期には、断絶したと考えることができるかもしれません」
玉手山古墳群はいわゆる三輪王朝のころに築かれています。卑弥呼の時代の少し後でしょうか。
玉手山1号墳の後円部墳頂には大坂夏の陣の際に討ち死にした徳川方武将奥田忠次の墓碑があります。
1号墳近くの児童公園から西の古市古墳群を見ています。正面が市野山古墳です。玉手山古墳群の時代には古市古墳群はまだありません。

2号墳は墓地として使われています。合理的?なことで妙に感心してしまいます。

3号墳の近く、安福寺の脇にある横穴群です。横穴墓ですからここも古墳時代後期です。

7号墳です。柏原市立玉手山公園内にあります。

ここは丘の上で、9号墳はこのさらに上にあるはずですが立入禁止です。

9号墳近くの高台にある西旭ケ丘公園から東を見ています。低い山の向こうはもう奈良です。
前期の古墳は低地ではなく丘や高地にあるものです。
それらは人々の生活圏を望んでいます。


参考:柏原市文化財課「玉手山古墳群」「高井田横穴群」「高井田山古墳」、柏原市教育委員会文化財概報『玉手山3号墳』『高井田山古墳』『高井田横穴線刻壁画保存事業報告書Ⅱ―第 3支群 5号墳一』、大阪市立大学日本史研究室・柏原市教育委員会(2003)『玉手山7号墳の発掘調査』