2023年11月25日土曜日

11月16日、寺崎珠真写真展「Heliotropic Landscape(新宿ニコンサロン)」に行きました

 

11月16日、寺崎珠真写真展「Heliotropic Landscape(新宿ニコンサロン)」に行きました


寺崎珠真氏の写真を最初に見たのは2016年の「リフレクション写真展2016」の時でした。これは湊雅博氏がディレクターとなって行われたグループ展でした。
この中で寺崎氏の視点が気になりました。それは、「そこにあるもの」を見つめてそれへのおそれと驚きがそのまま写されているような写真でした。
上の写真集『LANDSCAPE PROBE』はそのころの写真をまとめているようです。

次に寺崎氏の写真を見たのは2021年に高田の馬場にあるギャラリーAlt_Mediumで行われた「Heliotropic Landscape」 展でした。今回のニコンサロンの写真展はこの延長線上にあるようです。

2021年の写真展そして今回の写真では、心を悩ませるといった姿勢を示すとともにフォルムの方向、様式のほうに向かっているようです。継続的な「作品」作りのために必要なことなのかもしれません。

2023年11月11日土曜日

広島と富山の縄文遺跡(10/25広島市比治山貝塚、11/8富山市北代遺跡)に行きました

 広島と富山のいずれも遺跡を見るのが目的ではなかったのですが、それぞれの場所ですこし足を延ばして縄文遺跡に寄ってきました。

10/25広島市比治山貝塚

広島市の比治山の北西麓には比治山神社、その南に頼家一族の墓のある多聞院、山上には広島市現代博物館やまんが図書館があります。それらに寄った後で山の南側に行くと放射線影響研究所がありその横には陸軍墓地があります。この写真はその陸軍墓地から南の海の方向を見たものです。

明治初期に西日本を管轄していた鎮西鎮台第一分営は広島におかれ、陸軍墓地はその墓地として始まったそうです。日清日露戦争の戦死者も多く埋葬され、正面に見えるのは1900年の北清事変で日本軍とともに戦って傷つき病院戦で広島まで着きながら亡くなった7名のフランス兵の墓です。たとえば「CAROUR Louis-Marie canonnier au 1er Regiment d'Artillerie de marine ne a KERVIGNAC Morbihan le 15 aout 1878 decede en rade d'Ujina le 21 juillet 1900 (CAROUR Louis-Marie 海兵第一連隊砲手1878年8月15日生れ1900年7月21日宇品泊地にて死)などと墓碑銘にあります。

陸軍墓地から南に山を下る道です。この先に比治山貝塚(現在の標高約10メートル)があります。いまでは海から離れた山のふもと近くです。

比治山貝塚です。縄文時代の後期から晩期のものです。陸軍墓地から下りてくると何やらホッとする頼もしい感じがしました。生業の場所だからでしょうか。
ここでは下層から上層に行くほど淡水系の貝が多いそうです。周囲の淡水化が進む時代だったのでしょう。
貝塚と言えば貝の加工品を通じての古代ネットワークを思い浮かべます。1951年の発掘報告ですでに比治山貝塚の四層を通じて九州との交流が活発であったことが指摘されています。

11/8富山市北代遺跡

富山市北代縄文広場です。あいの風とやま鉄道の呉羽駅が最寄駅です。
縄文時代中期後葉を中心にした大集落跡で、これまでに竪穴住居址78、中央に高床建物跡が4棟確認されています。

ここには北代縄文館という展示施設があり、たいへん興味深い展示があります。これは竪穴住居内の家族のイメージです。

不思議な造形です。蛇が口を開けている様子との説明があります。

この土偶の目にはタールが残っていて玉石がはめ込まれたいたのではないかとのことです。

これはすぐ近くの小竹貝塚の貝層です。いまは海岸から4キロ離れています。こちらは縄文時代の前期の貝塚です。土器は東北地方中南部の大木式、京都の北白川式、埼玉県の黒浜式など多様なものが出土しています。
また、縄文前期では最多の91体の埋葬人骨が発見されました。この骨の分析によって、他地域から男性が婚入してく母系社会であろうこと、あるいは小竹貝塚 1 号人骨は東北縄文時代中・後・晩期の女性集団に最も近いことなどが議論されています。
縄文時代の交流、ネットワーク、流通はおそらく非常に活発だったのでしょうがその実情はよくわかりません。
理解のためには「クラ交易」なども視野に入れた、ステレオタイプにとらわれない史観、人間観が必要なのでしょう。

参考:「熊本鎮台」国立公文書館アジ歴グロッサリー、「比治山貝塚広島県の文化財 島県教育委員会、「県史跡比治山貝塚」財団法人広島市文化財団文化科学部、「比治山貝塚は語る」財団法人広島市文化財団文化科学部ひろしまWEB博物館、田島正憲「縄文貝塚群から見た吉備先史社会素描」『半田山地理考古』2 岡山理科大学 2014、「縄文時代」熊野町史通史編 広島県安芸郡熊野町 1987、原野昇「広島のフランス人墓地」『仏蘭西学研究』28 1998、「広島比治山陸軍墓地略史」比治山陸軍墓地保存協賛会1964、「大野郷遣跡」財団法人広島県教育事業団発掘調査報告書第152006、「広島県の縄文時代主要遺跡」広島大学総合博物館、松崎寿和「広島市比治山貝塚」広島県史跡名勝天然記念物調査報告 6集 広島県教育委員会 1951 国立国会図書館デジタルコレクション

 「小竹貝塚」富山県教育委員会埋蔵文化財センター、『富山市埋蔵文化財調査報告59:富山市小竹貝塚発掘調査報告書』富山市教育委員会埋蔵文化財センター2013、「小竹貝塚でみつかった他地域の土器」富山県埋蔵文化財センター、「北代縄文広場」「富山市遺跡探訪」富山市埋蔵文化財センター、「史跡北代遺跡発掘調査概要」富山市教育委員会1997 、溝口優司「小竹貝塚 1 号人骨と縄文時代中・後・晩期近隣諸地域集団との関係」Anthropological Science (Japanese Series)

Vol. 122(1), 2014

小山修三 岡田康博『縄文時代の商人たち』洋泉社新書2000、山田康弘『縄文時代の歴史』講談社新書2019、マリノフスキ『西太平洋の遠洋航海者』講談社学術文庫2010


 



2023年10月10日火曜日

ローマ帝国の辺境付近(9月11日,13日グラスゴーのローマの砦周辺とクライド川, スコットランド、9月17日ユトレヒトのHoge Woerd博物館, オランダ)

9月にイギリスとオランダに行く用事があり、現地休暇の日にすこし散歩をしました。

9月13日 グラスゴーのローマの砦周辺とクライド川, スコットランド

これはローマ帝国の辺境図です。この地図の左上のイングランドとスコットランドの境界あたりにHadrian's Wall(ハドリアヌス長城)があり、さらに北にWall of Antoninus(アントニヌス長城があります。こちらはケルトの攻撃が激しく短命で終わりローマ軍はハドリアヌス長城まで撤退します)が見えます。

それから、このブログの後半でユトレヒトに触れますが、この地図のオランダ側に Lugdunum Batavorum(バタヴィ族の要塞)があり、ユトレヒトはその東の旧ライン川沿いにあります。

この地図はアントニヌス長城の詳細です。グラスゴーの北を通っています。地図にはありませんが東(右)の先にエジンバラがあります。
この写真は上の地図のCleddansの近くです。スコットランドの典型の低い丘が見えます。

同じ場所です。なだらかな坂道です。

以下はグラスゴー市内を流れるクライド川沿いの散歩記です。
グラスゴー市内のホテルの窓から西の方を見ると、ちょっとわかりにくいのですが、クライド川に面している1931年に完成したフィニストンクレーン(Finnieston Crane)が見えました。グラスゴーの造船業が盛んな頃に、蒸気機関車やタンクなども船に積み込んだそうです。
市内からクライド川の下流方面を見ています。この先の河口付近はイギリスの産業革命を支えたグラスゴーの造船業の中心地です。クイーンメリー号もここで作られたそうです。

これは2009年に完成したクライド川を渡るトレードストン橋(波状橋)Tradeston bridge (Squiggly Bridge)です。ちょっと横浜市の境川遊水地公園にある鷺舞橋を連想しましたが構造はかなり違うようです。

1853年にできた南ポートランド通り吊橋(South Portland Street Suspension Bridge)です。クライド川の最初の歩道橋です。

吊り橋を見て振り返ると派手な絵が延々と続いています。グラスゴーではいわゆるストリートアートが多くの場所に描かれていて川沿いにもたくさん見られます。市のコミュニティ・アセット担当議員が「グラスゴーはストリートアートで定評があり、それは公共スペースに色と活気を頻繁に加える文化です」と言っているぐらいです。でも宗派的、同性愛嫌悪的、攻撃的、人種差別的、露骨なものは消されるそうです。


これはスペイン戦争時の国際旅団の記念碑(1980年)です。英国には全部で53か所の同様の記念碑があるそうです。全英から2100人の義勇兵が参加して534人が戦死、そのうち65人はグラスゴー出身とあります。「BETTER TO DIE ON YOUR FEET THAN LIVE FOR EVER ON YOUR KNEES」というDolores Ibarrurlの詩が刻まれています。その意気や壮ですが、この人はスペイン戦争後にソ連に亡命したようです。1980年にソ連派の人の詩を使うのはどういうことなのでしょう?1979年に保守党のサッチャー政権が誕生しています。スコットランドでは反対派のリアクションが協力だったのかもしれません。

9月17日ユトレヒトのHoge Woerd博物館, オランダ

ホーゲ・ヴェルト博物館(Museum Hoge Woerd)正面です。
ローマ帝国時代を主なテーマにした考古学博物館です。
ホームページではおおむね以下のように説明しています。
この新しい文化公園は『地下の駐屯地の町』を初めて目に見えるようにしました。もちろん、目玉はローマ時代の要塞自体です。西側の丘の方には、ライン川が流れていました。反対側は道路です。これに沿って大きなキャンプが発展し、何百人もの職人、商人、パブの所有者、兵士の女性と子供たちが住んでいました。東側は、当時庭園、菜園、納屋などです。北門の前には浴場、『フィットネスセンター』、クラブハウスがあり、人々は定期的に集まり、ニュースを交換したり、話し合いました」
行き方は、ユトレヒト中央駅からバス、あるいはゴーダ方面に向かう列車ですぐのUtrecht Terwijde駅からバスで行くのが便利のようです。 


これが博物館の目玉の北西ヨーロッパで最も完全に保存されたローマの川船です。博物館のメインのウィングの1階の大きなスペースを占めていてたいへんな迫力です。
この船は稼働状態のまま西暦190年頃に沈没しました。そのため、船の積み荷の大部分は保存されていました。

このころの多くの衣服は羊の毛で作られていたようです。このハサミは羊の毛を刈るために使用された可能性があるとされています。

博物館の中庭の様子です。周囲はローマ時代の砦を模した壁がめぐっています。気持ちのいいレストランもあります。

博物館はローマ時代が主なテーマですが、別のウィングでは古代から現代までの幅広い展示も見られます。このギャラリーではそのエッセンスをビジュアルに示しています。

パノラマムービーで各時代の当地の様子を示しています。これは紀元前1300年とあります。このころは大きな川は流れていないようで森の中です。

ローマ時代です。見張りの塔がありローマ兵が歩いています。大きな川が迫っています。旧ライン川でしょう。

1200年ごろ。農村になっています。またライン川は流域を変えたようです。

1940年5月10日、ドイツ軍のユンカース88Aがユトレヒト上空で撃墜されました。ここでもグラスゴーと同じく20世紀の戦争の影が見られます。

これはなんだろう?と思ったのですが、ユンカースのプロペラを恐る恐る触ってみる村の少女の像のようです。この付近の村では大事件だったのでしょう。

参考:Emerson Kent, Map of the Antonine Wall, Scotland, built AD 142/143, Roman Britain、  Emerson Kent, Historical Map of the European Provinces of the Roman Empire, University of Texas at Austin. Historical Atlas by William Shepherd、  Amy Irvine, The Finnieston Crane, Glasgow, Scotland, United Kingdom、  Glasgow City Council, Legal Graffiti Walls To Be Trialled In Glasgow, Published: Tuesday, October 3, 2023、アルベルト・アンジュラ『古代ローマ帝国15000キロの旅』河出書房新社2013年、中村隆文『物語 スコットランドの歴史』中公新書2022年、木村正俊『ケルト全史』東京堂出版2021年、川成 洋「イギリス『国際旅団』の最後の挑戦」、佐藤弘幸『図説オランダの歴史』河出書房新社2019年、Museum Hoge Woerd ホームページ

2023年9月30日土曜日

9月に見た写真展(田凱 「過去との往復書簡」9月5日Totem Pole Photo Gallery 新宿 東京、Johny Pitts「Home is Not a Place」9月15日The Photographers Gallery, London UK

9月5日、 田凱 「過去との往復書簡」

トーテムポールフォトギャラリーのある東京四谷三丁目近辺は坂の多いところです

細い道の横に好ましいギャラリーがありました

田凱氏は1984年中国生まれで2006年に来日したそうです。この写真展では故郷である天津市(省に相当)の地方にある旧油田地帯で撮影しています

静かなノスタルジーがあり、すこしこわばっているような感覚があるようです。一時の産油ブームが去り、いわば国家が急接近し、また足早に去って行った地域です

会場におかれたプリントをゆっくり見られるのはありがたいことでした

9月15日、Johny Pitts「Home is Not a Place」

ロンドンのオックスフォード・サーカス駅から少し東に歩き、南に降りる階段を下ります
この路地の右手にフォトグラファーズ・ギャラリーがあります

Johny Pitts氏は写真家であるだけではなく、作家、音楽家でもありたいへん多才な人のようです
イメージも実に多彩であり、そのフットワークの良さが何よりもまず目に入ってきます。写真展のHPにはnarratives surrounding Black British culture todayと紹介されています

Pittsにとって、たしかに「ホーム」はどこかの場所ではなくそれは写真を撮るという行為、対象との関係の中にあるのでしょう


参考:

田凱 過去との往復書簡 / Correspondence With The Past、2023.9.5 (tue) – 9.17 (sun)

Johny Pitts: Home is Not a Place | The Photographers Gallery、Fri 23 Jun 2023 - Sun 24 Sep 2023






2023年9月1日金曜日

8月、河内湖周辺の弥生遺跡めぐり(8/5大阪市旭区森小路遺跡、8/11守口市八雲遺跡、8/12東大阪市高井田遺跡・大東市西諸福遺跡、8/17大東市中垣外遺跡、8/18東大阪市瓜生堂遺跡、8/19中央区森の宮遺跡)

 この8月は、弥生時代の河内湖の周辺遺跡を歩きました。かならずしも遺跡の発掘跡に行ったわけでもなく周辺散歩のようなものです。

まず、現在の大阪平野のデジタル標高地図です(国土地理院デジタル標高地形図大阪_2015年11月)。左やや下に大阪城が見えます。十字のところは花博記念公園鶴見緑地内の築山です。

これは、以下の論文からの引用です。

若林邦彦2001「弥生時代大規模集落の評価 大阪平野の弥生時代中期遺跡群を中心に」収録の濱田延充1996「弥生土器様式の空間概念」『京都府埋蔵文化財論集』(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター より

こちらは、以下からの引用です。

大阪府教育委員会2020「大阪府水中遺跡関連文化財調査報告書Ⅰ」収録の趙哲済・松田順一郎 2003「河内平野の古地理図」『日本第四紀学会「大阪 100 万年の自然とくらし」普及講演会資料集』IV 頁 より

弥生時代の河内湖の範囲は諸説あるようです。載っている弥生遺跡も同じではありません。

今回歩いたのは、図中の森小路、西諸福、中垣外、瓜生堂、高井田、森之宮です。

8/5大阪市旭区森小路遺跡

京阪本線森小路駅の東にある新森中央公園です。この公園を中心にして半径300~400メートルの範囲が弥生時代の集落跡で、弥生式土器、石剣、鍬、鋤、木臼、動物の骨、貝類などが見つかっています。公園には立派なクスノキがあります。
キリンもいます。

周囲は静かな住宅街です。遠くに見えるのは生駒山方面です。



遺跡から西に20分ほど行った旭区民センターには郷土資料室があって展示の中に「土器に描かれた人物像」がありました。大阪府で最古の絵とのことです。

8/11守口市八雲遺跡


八雲遺跡は弥生時代前期末から中期初頭の淀川堤防すぐ近くの集落遺跡で、佐渡産出の石器や山陰産のメノウが、住居址、土坑から出土しています。
写真は遺跡の範囲にある下島公園です。
この公園のシンボルはタコです。地面は海辺のような砂です。

淀川の堤防上から東を見ています。守口市大日の高層マンションの向こうに生駒山が見えます。

8/12東大阪市高井田遺跡


高井田遺跡は旧大和川が沖積を進めていた地域の微高地上の弥生前期遺跡の一つです。
写真は、JR東大阪線高井田中央駅から西(大阪市中心街方向)を見ています。
雨柱が見えます。
左の阪神高速東大阪線の下あたりに遺跡があるはずです。

駅(JR東大阪線高井田中央あるいは大阪メトロ中央線高井田駅)を出てすぐ近くに長瀬川遊歩公園があります。ここはかつての大和川本流のようです。

8/12大東市西諸福遺跡















続いて同じ日に、JR学研都市線鴻池新田駅から少し北の西諸福遺跡付近を南北に歩きました。
駅を出て北に歩くと寝屋川が東西に流れていて、橋の上から東を見ると生駒山です。

さらに北に5分ほど歩いて振り返ったところです(南を見ています)。この道の右側(西側)が遺跡の範囲です。

駅に戻る途中に「勿入渕跡」の碑があります。枕草子にある「ないりその淵、たれにいかなる人のをしえけむ」の地ということです。
かなり大きな池が平安時代まであったのでしょうか。

8/17大東市中垣外遺跡


これは大阪環状線桜ノ宮駅近くを走る電車内から撮った写真です。大川下流を見ています。奥が帝国ホテル、橋が源八橋、右端あたりが弥生土器が出土している同心町遺跡です。






JR学研都市線野崎駅を降りて東へ、正面の福聚山慈眼寺(野崎観音)に至る野崎参道です。左の山の方に飯盛城址があり、慈眼寺の奥が野崎遺跡、中垣外遺跡は右方向(南)です。


慈眼寺本堂です。


お寺の裏山を飯盛山の方に少しだけ登るとみはらし台があります。写真の左が生駒・葛城(その手前、葉がかかるあたりが中垣外遺跡)、中央は和歌山方面、右に大阪中心部が見えます。

慈眼寺からすこし中垣外遺跡方向に歩いたところにある大東市立歴史民俗資料館に寄ってみました。
これは野崎遺跡出土の「弥生式短頸大型壺型土器(市指定文化財第一号)」です。「弥生時代後期頃の壺で、中からは幼児の人骨が見つかりました」とのことです。
見事な文様です。

8/18東大阪市瓜生堂遺跡


瓜生堂遺跡はとても広い範囲で弥生前期~中期の竪穴建築物、水田、高床倉庫、方形周溝墓、石器、土器、青銅器など非常に多くの遺物・遺構が出土しています。
近鉄奈良線の若江岩田駅から南西方面の範囲です。
この写真は駅から東方面です。例によって生駒山です。

街を南に歩いて、若江鏡神社や若江城址などの史跡も見ましたが、なにより町の雰囲気がいい感じです。


駅の南西には第二寝屋川が流れています。旧楠根川流域をベースにして河内平野南部の洪水対策のために戦後掘削された川です。
この写真は駅から15分程度歩いた桜橋付近から南方向(上流)を見ていて、奥の方は巨摩遺跡(方形周溝墓等出土)や、若江北遺跡(集落遺構)と呼ばれる範囲になります。


駅近くに戻ってきました。このような町の様子を眺めていると何をしに来たのかほとんど忘れます。

8/19中央区森の宮遺跡


森の宮遺跡は縄文時代から始まる遺跡です。森之宮遺跡展示室が8/19~8/21の間だけ公開されるというので見に行きました。大阪環状線あるいは大阪メトロ中央線の森ノ宮駅のすぐ近くです。
写真は、展示にあった貝塚の写真で、白く見える貝塚の下の方が海のカキなどの縄文時代の層、その上にセタシジミなどの汽水・淡水の貝が重なっています。
つまり河内潟から河内湖に変わったということになります。
縄文時代の層から東北地方に多い亀ヶ岡式土器、関東に多い堀之内式土器が出土、北陸の八日市新保式土器、九州の西平式土器が出ているそうです。
上町台地をハブとした広域の流通を垣間見ることができます。


近くにある玉造稲荷神社の参道です。河内湖の時代には湖岸の高地だったのでしょう。

河内の弥生遺跡では中期から後期の移行期の集落の断絶や、後期前葉の集落数減少と集落分布密度の低下、集落の高所立地傾向を広く確認できるようです。
可住域の変動、物流ネットワークをめぐる抗争、統合意識の変容など、数百年から千年に及ぶ弥生時代を想像すると呆然となります。
この8月は河内湖周辺の弥生遺跡付近を歩いてみました。
当然ながら生駒山地や上町台地はどこからでもよく見えるようです。

参考:寺前直人2017『文明に抗した弥生の人びと』吉川弘文館、北條芳隆2019『考古学講義』ちくま新書、大阪市教育委員会 2017 『大阪市内埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書(2015)』、大阪府教育委員会 2020 『大阪府水中遺跡関連文化財調査報告書Ⅰ1』、大阪文化財センター1995『巨摩・若江北遺跡発掘調査報告ー第4次ー』、大阪府教育委員会「森の宮遺跡」(森之宮遺跡展示室資料)、東大阪市教育委員会2002『瓜生堂遺跡第46,47-1・2次発掘調査報告書』、東大阪市遺跡保護調査会1982『若江遺跡発掘調査報告書 I本文編』、大東市教育委員会 2000 『大東市埋蔵文化財調査報告17:西諸福遺跡発掘調査報告書』、若林邦彦2001「弥生時代大規模集落の評価 大阪平野の弥生時代中期遺跡群を中心に」「日本考古学第12号」日本考古学協会、深澤芳樹他2022「近畿地方南部地域における弥生時代中期から後期への移行過程の検討」国立歴史民俗博物館研究報告第 231 集、鈴木一久2010「河内平野における海のなごり」近畿大学教育論叢 22巻1号、旭区の今昔を知る会 大阪市旭区2012「旭の今昔 旭区地域史」、奈良文化財研究所 文化財総覧WebGIS 八雲遺跡、「大東市立歴史民俗資料館常設展示案内」