この8月は、弥生時代の河内湖の周辺遺跡を歩きました。かならずしも遺跡の発掘跡に行ったわけでもなく周辺散歩のようなものです。
まず、現在の大阪平野のデジタル標高地図です(国土地理院デジタル標高地形図大阪_2015年11月)。左やや下に大阪城が見えます。十字のところは花博記念公園鶴見緑地内の築山です。

これは、以下の論文からの引用です。
若林邦彦2001「弥生時代大規模集落の評価 大阪平野の弥生時代中期遺跡群を中心に」収録の濱田延充1996「弥生土器様式の空間概念」『京都府埋蔵文化財論集』(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター より
こちらは、以下からの引用です。
大阪府教育委員会2020「大阪府水中遺跡関連文化財調査報告書Ⅰ」収録の趙哲済・松田順一郎 2003「河内平野の古地理図」『日本第四紀学会「大阪 100 万年の自然とくらし」普及講演会資料集』IV 頁 より
弥生時代の河内湖の範囲は諸説あるようです。載っている弥生遺跡も同じではありません。
今回歩いたのは、図中の森小路、西諸福、中垣外、瓜生堂、高井田、森之宮です。
8/5大阪市旭区森小路遺跡
京阪本線森小路駅の東にある新森中央公園です。この公園を中心にして半径300~400メートルの範囲が弥生時代の集落跡で、弥生式土器、石剣、鍬、鋤、木臼、動物の骨、貝類などが見つかっています。公園には立派なクスノキがあります。
キリンもいます。
周囲は静かな住宅街です。遠くに見えるのは生駒山方面です。
遺跡から西に20分ほど行った旭区民センターには郷土資料室があって展示の中に「土器に描かれた人物像」がありました。大阪府で最古の絵とのことです。
8/11守口市八雲遺跡
八雲遺跡は弥生時代前期末から中期初頭の淀川堤防すぐ近くの集落遺跡で、佐渡産出の石器や山陰産のメノウが、住居址、土坑から出土しています。
写真は遺跡の範囲にある下島公園です。
この公園のシンボルはタコです。地面は海辺のような砂です。
淀川の堤防上から東を見ています。守口市大日の高層マンションの向こうに生駒山が見えます。
8/12東大阪市高井田遺跡
高井田遺跡は旧大和川が沖積を進めていた地域の微高地上の弥生前期遺跡の一つです。
写真は、JR東大阪線高井田中央駅から西(大阪市中心街方向)を見ています。
左の阪神高速東大阪線の下あたりに遺跡があるはずです。
駅(JR東大阪線高井田中央あるいは大阪メトロ中央線高井田駅)を出てすぐ近くに長瀬川遊歩公園があります。ここはかつての大和川本流のようです。
8/12大東市西諸福遺跡
続いて同じ日に、JR学研都市線鴻池新田駅から少し北の西諸福遺跡付近を南北に歩きました。
駅を出て北に歩くと寝屋川が東西に流れていて、橋の上から東を見ると生駒山です。
さらに北に5分ほど歩いて振り返ったところです(南を見ています)。この道の右側(西側)が遺跡の範囲です。
駅に戻る途中に「勿入渕跡」の碑があります。枕草子にある「ないりその淵、たれにいかなる人のをしえけむ」の地ということです。
かなり大きな池が平安時代まであったのでしょうか。
8/17大東市中垣外遺跡
これは大阪環状線桜ノ宮駅近くを走る電車内から撮った写真です。大川下流を見ています。奥が帝国ホテル、橋が源八橋、右端あたりが弥生土器が出土している同心町遺跡です。
JR学研都市線野崎駅を降りて東へ、正面の福聚山慈眼寺(野崎観音)に至る野崎参道です。左の山の方に飯盛城址があり、慈眼寺の奥が野崎遺跡、中垣外遺跡は右方向(南)です。
慈眼寺本堂です。
お寺の裏山を飯盛山の方に少しだけ登るとみはらし台があります。写真の左が生駒・葛城(その手前、葉がかかるあたりが中垣外遺跡)、中央は和歌山方面、右に大阪中心部が見えます。
慈眼寺からすこし中垣外遺跡方向に歩いたところにある大東市立歴史民俗資料館に寄ってみました。
これは野崎遺跡出土の「弥生式短頸大型壺型土器(市指定文化財第一号)」です。「弥生時代後期頃の壺で、中からは幼児の人骨が見つかりました」とのことです。
見事な文様です。
8/18東大阪市瓜生堂遺跡
瓜生堂遺跡はとても広い範囲で弥生前期~中期の竪穴建築物、水田、高床倉庫、方形周溝墓、石器、土器、青銅器など非常に多くの遺物・遺構が出土しています。
近鉄奈良線の若江岩田駅から南西方面の範囲です。
この写真は駅から東方面です。例によって生駒山です。
街を南に歩いて、若江鏡神社や若江城址などの史跡も見ましたが、なにより町の雰囲気がいい感じです。
駅の南西には第二寝屋川が流れています。旧楠根川流域をベースにして河内平野南部の洪水対策のために戦後掘削された川です。
この写真は駅から15分程度歩いた桜橋付近から南方向(上流)を見ていて、奥の方は巨摩遺跡(方形周溝墓等出土)や、若江北遺跡(集落遺構)と呼ばれる範囲になります。
駅近くに戻ってきました。このような町の様子を眺めていると何をしに来たのかほとんど忘れます。
8/19中央区森の宮遺跡
森の宮遺跡は縄文時代から始まる遺跡です。森之宮遺跡展示室が8/19~8/21の間だけ公開されるというので見に行きました。大阪環状線あるいは大阪メトロ中央線の森ノ宮駅のすぐ近くです。
写真は、展示にあった貝塚の写真で、白く見える貝塚の下の方が海のカキなどの縄文時代の層、その上にセタシジミなどの汽水・淡水の貝が重なっています。
つまり河内潟から河内湖に変わったということになります。
縄文時代の層から東北地方に多い亀ヶ岡式土器、関東に多い堀之内式土器が出土、北陸の八日市新保式土器、九州の西平式土器が出ているそうです。
上町台地をハブとした広域の流通を垣間見ることができます。
近くにある玉造稲荷神社の参道です。河内湖の時代には湖岸の高地だったのでしょう。
河内の弥生遺跡では中期から後期の移行期の集落の断絶や、後期前葉の集落数減少と集落分布密度の低下、集落の高所立地傾向を広く確認できるようです。
可住域の変動、物流ネットワークをめぐる抗争、統合意識の変容など、数百年から千年に及ぶ弥生時代を想像すると呆然となります。
この8月は河内湖周辺の弥生遺跡付近を歩いてみました。
当然ながら生駒山地や上町台地はどこからでもよく見えるようです。
参考:寺前直人2017『文明に抗した弥生の人びと』吉川弘文館、北條芳隆2019『考古学講義』ちくま新書、大阪市教育委員会 2017 『大阪市内埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書(2015)』、大阪府教育委員会 2020 『大阪府水中遺跡関連文化財調査報告書Ⅰ1』、大阪文化財センター1995『巨摩・若江北遺跡発掘調査報告ー第4次ー』、大阪府教育委員会「森の宮遺跡」(森之宮遺跡展示室資料)、東大阪市教育委員会2002『瓜生堂遺跡第46,47-1・2次発掘調査報告書』、東大阪市遺跡保護調査会1982『若江遺跡発掘調査報告書 I本文編』、大東市教育委員会 2000 『大東市埋蔵文化財調査報告17:西諸福遺跡発掘調査報告書』、若林邦彦2001「弥生時代大規模集落の評価 大阪平野の弥生時代中期遺跡群を中心に」「日本考古学第12号」日本考古学協会、深澤芳樹他2022「近畿地方南部地域における弥生時代中期から後期への移行過程の検討」国立歴史民俗博物館研究報告第 231 集、鈴木一久2010「河内平野における海のなごり」近畿大学教育論叢 22巻1号、旭区の今昔を知る会 大阪市旭区2012「旭の今昔 旭区地域史」、奈良文化財研究所 文化財総覧WebGIS 八雲遺跡、「大東市立歴史民俗資料館常設展示案内」