2024年12月11日水曜日

野毛大塚古墳など、関東の帆立貝型古墳(野毛大塚古墳、亀塚古墳、女体山古墳、おくま山古墳、龍角寺古墳群101号墳、大(応)神塚古墳)

帆立貝型古墳の被葬者は武具の副葬品が多いことからも軍事行動の指揮官であるようです。しかし、その軍事行動はどのように組織されていくのかよくわかりません。「古代の近代」以前の話です。輸送、兵站、戦闘の実際のみならず、共同行動にあたっての神話やリネージュの再編の在り方、儀礼など動員に至る過程はどうなっているのでしょうか?また軍事行動の結果の利益はどのような確実性をもって想像されたのでしょうか?
一向に分からないまま歩いてみます。

野毛大塚古墳(2024年11月 東京都世田谷区)

野毛大塚古墳には以前行きましたが、ずいぶん古いことなのでなかなか写真が見つかりません。そこで、あらためて東急大井町線の等々力駅から歩いて行ってきました。実に立派な墳丘全長82メートルの帆立貝型古墳です。関東地方最古の鉄製甲冑も出土しています。西暦400年ごろの築造で、主体部は4つあります。

野毛大塚古墳前にあった模型です。これは分かりやすい。

野毛古墳群の最も最初に作られた4世紀末の小型前方後円墳、上野毛稲荷塚古墳です。全長33メートル。

このあたりは等々力渓谷に近い住宅街です。野毛橋。

亀塚古墳(2024年11月 東京都狛江市)

この帆立貝型古墳もずいぶん前に行きましたがこれも写真を発見できません。前は確か小田急線の狛江駅から歩いた記憶がありますがこんどは和泉多摩川駅から歩きました。全長40メートル。いまは前方部の一部が残っています。
このあたりも古墳の多い地域で、写真は前原塚古墳(円墳、直径18メートル、6世紀末以降)です。

女体山古墳(2012年8月、群馬県太田市)

ずいぶん古い写真です。
左が女体山古墳(墳丘長106メートル、5世紀前半)、右にあるのが有名な東日本最大の太田天神山古墳です。女体山古墳の方が少し古いようです。

おくま山古墳(2024年12月 埼玉県東松山市)


最寄駅は東武東上線の東松山駅です。
全長62メートルの帆立貝型古墳。5世紀末築造。
近くに埼玉県最大の野本将軍塚古墳(墳丘全長115メートル、前方後円墳)がありますがこれは前期古墳です。
また、おくま山古墳の近くの吉見町には武蔵国の最も早い時期の前方後方墳である三ノ耕地の1・2号墳、山の根古墳があります。これらは3世紀前半にさかのぼる古墳です。写真は三ノ耕地遺跡です。
吉見町はまた古墳時代後期の横穴墓群の吉見百穴でも有名です。


さらに、東松山駅から一駅隣の高坂駅の東、つまりおくま山古墳の南にある反町遺跡調査では弥生時代中期から古墳時代前期の大規模な集落跡、玉製作跡、古墳時代中期から後期の古墳群などが発見されました。
写真はいまの反町遺跡周辺です。巨大なショッピングセンターになっています。今も昔も流通の拠点です。
こうしてみると、比企地域は埼玉古墳群(5世紀後半~7世紀中頃)の時代以前は武蔵の中心であったようです。

龍角寺古墳群101号墳(2018年10月 千葉県成田市)


この古墳は報告書では「二重周溝と造り出し付きの中堤を設けた円墳として築造された後、前方部が付加されて帆立貝形前方後円墳に改造されていた」とされています。ややこしいことです。とてもきれいに復元されています。

大(応)神塚古墳(2024年12月 神奈川県高座郡寒川町)

JR相模線寒川駅近くの大(応)神塚古墳。この古墳はおおよそ4世紀後半の築造と考えられているようです。墳形は前方後円墳ではあるようですが後方部の形状の確認はできていないようです。古墳の前の説明版には「帆立貝型を呈する」とありますがその根拠はよくわかりません。

参考:沼澤豊「日本古墳の構造研究」2011、世田谷区教育委員会「東京都指定史跡野毛大塚古墳」、狛江市役所「亀塚古墳」、太田市「女体山古墳」、東松山市「おくま山古墳」、東松山市教育委員会「埼玉県指定史跡将軍塚古墳」2019、埼玉県埋蔵文化財調査事業団『見えてきた !! 古墳時代の幕開け-東松山市反町遺跡を中心に-』2015、千葉県教育委員会『千葉県成田市所在竜角寺古墳群第101号古墳発掘調査報告書』1988、寒川町教育委員会「大(応)神塚古墳(寒川町№8 遺跡)保存目的のための調査概要2023」「大(応)神塚古墳(寒川町№8 遺跡)保存目的のための調査概要2019」


 




11月26日、国立近代美術館の清野賀子写真展『a good day, good time』

 

この方は、1990年代の終わりごろから2000年代にかけて活躍された方のようですが、まったく知りませんでした。ファッション写真に関係していたらしく、気づくこともなかったのでしょう。この写真展のタイトルは2008年に行った写真展と同じですのでその時の写真なのでしょう。

写真は、「写ってしまう」ことへの驚きがそのままあらわれていて、それを意識的に持続させることに注力しているようです。

それはいわば自然体のままなので簡単なように見えて実は簡単なことではなかったでしょう。「自分の作品」という逃げ場所がなくなっていくわけですから。